平田 圭吾のページ

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西郷隆盛『遺訓 現代語訳』より、「五、子孫のために美田を買わず」

電子書籍として発売中の『遺訓 現代語訳』のサンプル文です。

気に入っていただけた方は、是非ともご購入ください。

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五、子孫のために美田を買わず

或(あ)る時「幾歴辛酸志始堅。丈夫玉碎愧甎全。一家遺事人知否。不為児孫買美田。(幾(いく)たびか辛酸(しんさん)を歴(へ)て志(こころざし)始めて堅し。丈夫は玉砕し甎全(せんぜん)を愧(は)づ。一家の遺事(いじ)人知るや否(いな)や。児孫の為(ため)に美田を買わず。)」との七絶を示されて、若(も)し此(こ)の言に違(たが)いなば、西郷は言行反したるとて見限られよと申されける。

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◆現代語訳◆

 ある時、「何度も辛酸を舐(な)めてこそ志は初めて堅く、丈夫たる者は玉砕してただ生き長らえることを恥じる。一家のやり残した事を人は知るかどうか、子孫のために良い田を買うことはない」との七言絶句を示されて、もしこの言葉に違うようなことがあるならば、西郷は言っていることとやっていることが違うとして、もうこれまでと見限られよ、と申された。

 

◆解説◆

 この部分については、論語を引用して解説する必要があろう。『論語・季氏第十六』には、君子の三戒というものがあるが、このうちの一つに、「其(そ)の老ゆるに及びては、血気既に衰(おとろ)う。之(これ)を戒(いまし)むること得るに有り」とある。人は老いれば、血気、つまり肉体が衰え、財産に囲まれることで安逸を求め、さらにこの財産を子孫に与えることで、次には心の安逸を求めるようになる。このような安逸を求める気持ちを戒めよ、と言うのである。


 しかし、これは人情であり、何も責められるべきことではない。むしろ、財産を求めてそれを子孫に残そうとは、当たり前の考えである。しかし、この人情に流されてしまえば、財産獲得という一事に心が覆われ兼ねない。心が覆われれば、財産獲得のためになりふり構わずなんでもしてしまうであろう。だからこそ、この七言絶句のように強い気持ちを持つ必要があるのだ。

 

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西郷隆盛『遺訓 現代語訳』より「はじめに」

 西郷隆盛がどのような人物なのか、ということについて、敢えて紹介する必要はないでしょう。日本人ならば、誰でも知っている人です。そこで、恐縮ではありますが、私の『遺訓』への思いを述べることで、はじめにとさせていただきます。

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『遺訓』との出会い

 私がこの『遺訓』と出会ったのは、まさに偶然でした。電子書籍ソフトにて、無料タイトルで面白いのがないかなぁと漁っているとき、たまたまこの『遺訓』の青空文庫版が表示されたのです。西郷隆盛はどのような人物であったのだろうと、これをダウンロードしてみました。

青空文庫の無料版はこれですが、旧漢字や漢文の返り点表記のオンパレードで、古書に慣れている方でないと読めません。気になるけど旧漢字に自信ないという方は、記事最後のリンクより現代語訳をお買い求めください)

 

儒学の到達点としての西郷

 内容を読み進めるに従い、私の心は満足で満たされました。というのも、私にそのような評価をすることが許されるのならば、西郷隆盛は、論語ほか、四書五経に代表される儒学思想を体現した人、ある意味では、儒学という学問の到達点と言って差し支えないと思えたからです。このような感動を覚えたのは、渋沢栄一の『論語と算盤』を読んで以来のことでした。そう遠くない過去に、しかも日本に、このような人物がいたということを知り、それだけでこの上ないほど深い満足感を得ることができたのです。

 

遺訓の翻訳に当たって

 ほどなくして、NHKの大河ドラマにて、西郷隆盛が扱われることを知り、この機会に、是非とも多くの方に西郷隆盛の良さを知ってもらいたいと、この翻訳をすることを決めました。私のような不徳の者では、西郷の足元にも及ばないかもしれません。しかし、儒学的な観点から、この『遺訓』を読み解く書物は、今のところ少ないようで、己の浅学を顧みず、関係が深い記述には、『論語』『大学』『中庸』を引用しながら、内容をさらに詳しく説明することを主眼に、解説を加えることとしました。
 また、論語などにあまり親しんでいない方にも、西郷の良さ、引いては論語などの良さを分かっていただくため、できるだけ、平易な言葉を選んで現代語訳をし、卑近な例えを用いるようにしました。このようなわけで、主眼は、あくまでも論語などの儒学思想と西郷の関わりにあります。歴史的な観点、伝記に書かれるような時代背景に関する解説はないため、この点についてはご了承いただければと思います。

 

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西郷隆盛『遺訓 現代語訳』より、「遺訓の由来」

電子書籍として発売中の『遺訓 現代語訳』の途中に挿入されている本文の由来を説明する文章です。

『遺訓 現代語訳』には、ここで紹介する、遺訓43章(本編41章・追加2章)、及び問答14章(問4章・答7章・補遺3章)と、さらに付録として、途中で西郷が研究するようにとして紹介している「伯夷頌」を収録しています。

内容の気になる方は是非ともご購入ください。

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遺訓の由来

 この『遺訓』は、明治三年ころ、数十人の有志が、西郷のもとで教えを請うた際の記録である。ゆえに、西郷が直接書いたものでなく、この時に話を聞いていた人が、それぞれの聞いた話を持ち寄り、有志の間で共有したものということになる。このために、本文には、「とぞなり」など伝聞を示す記述があるし、全てを西郷の発言として読んでいると、意味を見失う場合がある。
 このように有志の間で大事にされていた『遺訓』であるが、その後、三矢藤太郎により、明治二十三年に初めて『西郷翁遺訓』として印刷された。また、明治二十九年に、片淵琢が『西郷南洲先生遺訓』として、これを東京で印刷し、その後広く読まれるようになったとされている。

 

問答の由来

 これ以後の『問答』には、ここまでの『遺訓』とは違う経緯がある。もと、西郷の妹婿(むこ)の姉の子である岸良眞二郎が、ここにある「問一~問四」を西郷に質(ただ)したことがきっかけとなり、西郷自身が筆を執り、「答一~答七」の部分を書いたとされている。
 その後、西郷の叔父(おじ)に当たる椎原與右衛門國幹が、これを求めたため、西郷はもう一度筆を執り、これを叔父のもとへ送ったとのことである。このような経緯のあるこの『問答』は、初版である三矢本には収録されている。最後にある『補遺』は、訓読すると「遺(のこ)すを補う」であり、一度答えを送った後で、誤解を恐れた西郷が、さらに付け足して答えたものではないかと思われる。
 また、もとの編集では、問一~問四が全て書かれた後に、答一~答七が載せられている。しかし、この編集方法であると少し分かりにくいため、問に対応する答えが横並びとなるよう編集し直した。

 

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