平田 圭吾のページ

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『20歳からの金融入門』(日本経済新聞出版社)を読んで

金融の本物のプロ以外は必読

わかりやすいいい本だった。
実際に金融の仕事をしている以外の人、つまり金融のプロでない人は、一度は読むべきと思う。

具体的には、個人的に株などをやっていて「金融は知っているから良いよ」程度の人は、絶対にこの本を一度は読んでおいたほうがいい。多分、この本を読むと、ひとつは「あ、そうだったんだ、よく分かってなかった」と思うことがあるだろう。

 

簡単だが難しい仕組みも明瞭に記載

難易度としては、著者の方は、小学生でも読める本を目指したらしのだけど、多分、小学生の高学年のうち、クラスで1,2を争う子くらいなら理解できる内容と思う。
だから、ハイパワードマネー微分積分や高度な計算式も出てこなくて、読みやすいし、分かりやすい。 かと言って、金融で必要な基礎知識は、その仕組からしっかりと網羅されている。
金融関係の入門書としては、かなり良い本と思う。

 

この本で一貫して伝えられている金融の良い側面

あと、最も評価したいのは、金融の「良い使い方の側面」を強調していることだ。
金融は確かに使い方次第では、眠っているお金を市場に流通させて、多くの人を幸せにする。

 

一般的な金融へのイメージ(私の見解)

しかし、残念ながら、金融をやっている人の大半は、文字通りカネ目当ての人が多く、この「みんなを幸せにする金融という技術」を、「私腹をこやすための道具」程度にしか考えていないだろうと思う。
例えば、「株」と言った時、日本人のほとんどが、「儲けのでかいギャンブル」と思うだろうけど、実際にそういった目的、つまりは投機目的で「株」に手を出す人が大半である。
まあ、投機も自己責任でやってもらう分には問題ないけれど、それで儲かってしまって影響力が大きくなると社会へ悪影響を及ぼす場合もある。 

 

この本を読むと「株」への誤解が解ける

「株」を触ろうという人は、是非とも一度この本を読んで、「株」の本来の意味を再確認していただきたいと思う。
義心や廉恥心のある人ならば、「株」を「儲けのでかいギャンブル」もしくは、「私腹をこやすための道具」程度にしか思っていなかったことを恥ずかしく思っていただけるものと思う。

 

少し古い本なのでその点は注意が必要

ただ、書かれた時期が、リーマンショック直後ということもあり、金融に詳しくない私でも、「今は変わっているのではないか」と思う部分もあった。
アベノミクス規制緩和で、「株」の「儲けのでかいギャンブル」もしくは、「私腹をこやすための道具」という側面が強くなったのではないかと思うからだ。

 

安倍政権で株価が急激に上がったのはなぜか

あと、本の内容とは全く関係ない上に、世の中ではなぜかあまり言われないのだけど、民主党からの政権交代後の安倍内閣で、株価が上がった理由は2つあると思う。
ひとつは年金資金での巨額の買い注文、もうひとつ、nisa制度によって少額の買い注文が多く入ったことがあると思うのだけど、どうして、これらのことはあまり言われないのか。
買い注文が入れば株価は上がる。しかし、それは経済が良くなって株価が上がったわけではない。事実、私の知る限りだと、外国人投資家は日本株をそれほど買っていないらしいではないか。つまり、日本の企業価値が上がって、株価が上がったわけではなく、日本人庶民のなけなしの貯金が株に変換されたことにより、相場的に値段だけが上がったということだ。
このように、金融の簡単な仕組みを使えば、簡単にまやかしの数字を作ることもできる。

 

アベノミクスでは誰が一番儲かった?

ちなみに、この安倍政権下で株価が上がって一番儲けているのは、民主党政権の時に「既に株を大量に持っていた人」であり、簡単に言ってしまえば、「もともと庶民ではない人」である。みんなが幸せになるどころか、「もともと有り余っていた人」が、さらに私腹を肥やしたのが、アベノミクス規制緩和ではないか。

 

金融も使い方と使う人次第

「乱君ありて乱国なく、治人ありて治法なし」とは荀子の言葉で、私の好きな言葉でもあるのだけど、金融も例外なく、使う人次第、使い方次第だなぁと思った。

 

hiratakeigo.hatenablog.com

西郷隆盛『遺訓 現代語訳』より、「二九、道を行う者 その二」

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二九、道を行う者 その二

道を行う者は、固(もと)より困厄(こんやく)に逢(あ)うものなれば、如何(いか)なる艱難(かんなん)の地に立つとも、事の成否身の死生抔(など)に、少しも関係せぬもの也。事には上手下手有り、物には出来る人出来ざる人有るより、自然心を動かす人も有れども、人は道を行うものゆえ、道を蹈(ふ)むには上手下手も無く、出来ざる人も無し。故(ゆえ)に只管(ひたすら)道を行い道を楽しみ、若(も)し艱難(かんなん)に逢(お)うて之(これ)を凌(しの)がんとならば、弥々(いよいよ)道を行い道を楽しむ可(べ)し。予壮年より艱難と云(い)ふ艱難に罹(かか)りしゆえ、今はどんな事に出会うとも、動揺(どうよう)は致すまじ、夫(そ)れだけは仕合(しあわ)せなり。

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◆現代語訳◆

 道を行う者は、そもそも困窮や災難にあっているのであるから、どんな困難の地に立ったとしても、事の成否や身の死生になどといったことは、少しも関係ないはずである。事には上手と下手があり、物には出来る人と出来ない人があるから、自然と心を(道を行うことから)動かしてしまう者もいる。しかし、人は誰でも道を行うのであるから、道を踏むのに上手下手もなく、出来ない人もいない。だから、ただひたすらに道を行って道を楽しみ、もし困難に遭遇してこれを凌ぐこととなったら、いよいよ道を行って道を楽しむようにするのだ。私は、壮年から困難という困難に出会っているから、今はどんな事に出会っても、動揺することなどない。それだけは幸せなことだ。

 

◆解説◆

 前章を読んで道を行おうと思った方も、ここを読むと、やはりやめようかと思われるかもしれない。というのも、いきなり「道を行う者は、固より困厄に逢うものなれば」とあるからだ。
 この真意を知るには、『論語』を引かなければならない。『論語・泰伯第八』には、「曾子(そうし)曰く、士は以(も)て弘毅(こうき)ならざるべからず。任重くして道遠し。仁(じん)以て己の任と為す。亦(また)重からずや。死して後已(や)む。亦遠からずや」とある。凡人を脱して英雄、あるいは君子たるべき人物にならんとする者が、凡人と同じことをしていられるはずがない。必ずや凡人の背負っている荷物よりも、大きな荷物を背負って、長い道のりを生きることとなるだろう。そうでなければ、英雄や君子たるべき人物たり得ることはない。
 また、途中に、「道を蹈(ふ)むには上手下手も無く、出来ざる人も無し」とあるのは、「人も我も同一に愛し給(たま)う」天から命じられた「性」に率(したが)うことが「道」であるからである。天は皆に平等に接するのであるから、ここから導かれる「道」も同様に、誰にでも同じものなのである。

 

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西郷隆盛『遺訓 現代語訳』より、「二〇、その人に成るの心がけ」

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二〇、その人に成るの心がけ

何程制度方法を論ずるとも、其(そ)の人に非(あら)ざれば行われ難(がた)し。人有りて後方法の行わるるものなれば、人は第一の宝にして、己(おのれ)其の人に成るの心懸(こころが)け肝要なり。

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◆現代語訳◆

  どれだけ、制度や方法を論じたとしても、その人でなければこれが行われることは難しい。人がいてこそ、その後にその方法も行われるのであるから、人こそが第一の宝であり、自分がその人になろうという心がけが肝要である。

 

◆解説◆

 仕事をこなすには、それを議論するだけの知識、または地位があるだけでなく、これに見合った内実が必要なことを言っている。
 いかに知識があって制度や方法に詳しい人がいたとしても、この人が、挨拶もできず、人に頭を下げて頼むこともできず、そもそも人から信用されないということならば、どんな善い制度や方法でも実現されることはない。
 サッカーに例えるならば、フォーメーションや戦術には詳しい監督がいて、選手がこの監督の言うことを聞かないということである。この監督が、イメージ通りに選手に動いてもらえるよう努力することが、その人に成るという心がけである。

 

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