平田 圭吾のページ

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『ユダヤ人に学ぶ危機管理 』(PHP新書)を読んで

良い本だった。

旧約聖書を読んでいるとかなり興味深く読めると思う。

本の内容としては、ユダヤマニア(なぜかユダヤが好きな人)と思われる著者が、超危険な現地に乗り込んでユダヤ人と交流し、その他の歴史的な戦場を巡り、その体験をもとに、そこでの観察や分析などを本にしたものであった。

もと自衛官ということもあり、そういった非常時の対応に興味があったのかもしれないとも思われる。

ユダヤの歴史と旧約聖書

前半の二章、ユダヤ人はなぜ生き延びることができたのか、と、聖書は危機管理の参考書、では、ユダヤの歴史がダイジェスト的に語られていく。

ユダヤの歴史はまさに離散と迫害の歴史であり、バビロン捕囚、ローマによる征服など、普通なら国も民族も無くなっていて全くおかしくない歴史である。それにも関わらず、近代になってユダヤ民族による国家建設が叶ったのは、ユダヤ教というその特異なものにあったとして間違いなかろう。民族とは何か、国家とは何か、ということを考える上でも、ユダヤ民族の研究はかなり有意義なものであると思う。

また、ユダヤ教の基本とされる、トーラーやタルムードの成立時期は、恐らくバビロン捕囚時と、ローマによる征服時とのことである。ここで、これらの書物の編纂は、自然発生的に起こったとのことであり、このことを分かっていて旧約聖書を読むと、あるいは、旧約をある程度読んでからこれを知ると、非常に興味深い。

あくまでも、私の考えであるが、旧約聖書には、意図時に、民族の維持に関する知恵というか、方法が組み込まれているだと思う。国土を奪われた民族が「約束の地」を具体的に明記し、また、その歴史でも「放浪を余儀なくされ」、「選民でありながらも苦難を受け続ける」も、約束の地にたどり着く。確実に分かっているだけの歴史事実と、そうでない先史の部分に非常な共通点があるのだ。

このような意見を述べると、「ならばモーセの時代などは全てフィクションなのか」という話などが出てくるのであるが、これはもっとニュートラルに考えるべき問題であると思う。だから、旧約の先史部分は、半分事実、半分フィクションというのが実際であると思う。

というのも、これは、中国の周にも言えることで、紀元前1000年、つまり3000年前に、あの広大な中国を統一した周という国家があったのかということ、また、書経などに伝わっていることが事実かどうかは、かなり疑問視される部分である。しかし、その後の春秋戦国時代には、事実として、周が盟主として担がれる歴史的事実が幾度も起こっており、この点で、周が実在し、かなりの権威を持っていたことは事実なのである。

だから、ユダヤ民族も同じであり、歴史的に実証され、分かっているダビデの時代以前から、割礼を施したり安息日を遵守するような習慣、立法を重視するような習慣は、あったわけであり、モーセという指導者がいて、ユダヤ民族がエジプトなどから迫害を受けた。というところまでは、恐らく事実であろうということである。

人は黒白、あるいは白黒の考え方を好むものだけど、やはり事実は、グレーである場合が多い。

 

イスラエルの歴史と現状

この二章の次には、イスラエル建国後、あるいは建国当時のことが、もと自衛官らしく、またこの本のタイトル通り、危機管理の観点から述べられている。

3章新たな戦争の本質を見抜く、4章テロリズムに対する危機管理、5章イスラエル社会の危機管理と銘打たれているが、この通りの内容と思う。

ユダヤの歴史や、トーラー・タルムードとの関係を横断的に交えながら、近現代イスラエルについて書かれており、大変興味深い点も多かった。ひとつ特異な点として、イスラエルでは、ユダヤの教えを遵守して、「国家公認で、暗殺や復讐が肯定されている」ということは、著者の方も若干の疑問を感じているようである。

また、世の中には、イスラエルを無条件に批判する人や、逆に、イスラエルを無条件に肯定する人がいるが、これについては、どちらも考えが足りない判断と思う。

例えば、自分の今住んでいるところに、急に軍隊が入ってきて、「気に入らない」あるいは「邪魔」という理由だけで、家財や土地を全部奪うようなことが起きた場合に、どう思うのか?

これをリアルに実感しないと、この問題について考えることはできない。このようなことが自分の身に起きた場合、あるいは、自分の先祖に起きていることが確実である場合のことを考えれば、非常に難しい問題であることを実感できるはずである。

 

個人的なまとめ

ユダヤの歴史を一言で言うならば、「憂患に生じて安楽に死するを知る」(孟子)の一言に尽きるだろう。しかし、「智者の慮は利害を雑う」(孫子)ものである。国家と民族存続に、必要以上に拘泥した考えに、当然のように弊害が潜んでいることは、本来ならば、考えるまでもないことのはずである。

 

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『渋沢栄一――社会企業家の先駆者』(岩波新書) を読んで

渋沢栄一の生涯を歴史資料から客観的にまとめた本。
同じタイプの本はあまり読んだことがないので、うまくまとめられていたかどうかは分からない。
ただ、なるべく主観を排して歴史資料に基づく説明に徹しているということはよく伝わってきた。だから、渋沢はこう考えていたみたいなことを決めつけていないという点、渋沢本人の著書論語と算盤 (角川ソフィア文庫)などと合わせて読むことが前提となっていると思われる点で良いと思う。そもそも、渋沢栄一の思想は、「道徳経済合一論」と言われているが、これも含めて渋沢を知るという意味で、まずは『論語と算盤』のほうを読んだほうがいい。

 

金儲けでない商売

この本の主題となっている渋沢栄一は、日本で最初の実業家、有名所では現在のみずほ銀行の初代頭取である。また、「民」の立場から、日本の商工業を発達させたという功績において、右に出る人はいない。そのような意味においても、まさに、「金儲けでない商売」を実践した人として間違いない。この人のことを知れば、誰もが、現代の「資本家連中」に爪の垢を煎じて飲ませてやりたいと思う人物である。

 

渋沢栄一が偉大である歴史的背景

また、「民の立場から商工業を発達させた」とはどんな意味なのかについては、少し歴史的な背景を述べないとならないだろう。
そもそも、江戸時代までには、商家や農家というのはあったけれど、それは全てお上の意向のもとに運営されていた。
現在では想像できないことであるが、例えば、農家に利発な子がいて、「ここできゅうりを大量に作って、きゅうりが不作の隣の藩に売りに行けば、みんなきゅうりが食べれてハッピーになれる」と、そういった商売を始めたとしよう。この商売は、利発な子の予想通りにうまく軌道に乗り、評判を集めるようになった。しかし、たまたま機嫌を悪くしていたお殿様がここを通りかかり、「おい、お前何勝手なことしとるんじゃ」の一言があったとしよう。そうしたら、誰がなんと言おうと、もうこの商売はやめなければならない。これが江戸時代だ。
そのような状況であるから、皆萎縮してしまって、そもそも皆がいいアイデアを考えようともしない。お殿様の気まぐれで、どんないい案でも簡単に潰されしまうのだ。そればかりか、あわよくいいアイデアを思いつき、殿様の了解を取りに行ったとしても、「おお、いいアイデアじゃな、それは越後屋にやらせよう」と言ったら、それでおしまいなのである。

このような状況が300年も続いていたわけだから、「民」が何か事業を立ち上げるということ自体が、もう本当にあり得ない状況だったのだ。確かに、形の上では明治維新を経て、それは可能であった。しかし、300年も続いた「民」のこの卑屈さはなかなか抜けないし、「民」からしても、いきなり「いいよ」と言われて、すぐに変われるわけではない。

そんな中、お上の立場を敢えて捨てて、「民」の立場からこの状況を打破しようといろいろ尽力したのが、渋沢栄一である。
こうして、渋沢栄一が、実際に事業を立ち上げ、その事業を運営し、そうすることで皆の手本となったし、その事業が日本の商工業化を推し進めたのだ。

 

渋沢栄一の成功談は他と違う

基本的に成功談というのは、ある集団から飛び出して、上位集団に移るというものが多い。
つまり、貧乏人が金持ちになる、庶民が総理大臣になる、平社員が社長になる、といった類である。これらは、成功談としては分かりやすいけれど、結局助かったのは自分だけという話ばかりである。
貧乏人の一人が金持ちになっても多くの貧乏人の地位が向上するわけではない。庶民の一人が総理大臣になっても誰もが権力から解き放たれるわけではない。平社員が一人社長になっても多くの人の生活が楽になるわけではない。その本人の地位だけが向上するに過ぎないのだ。
しかし、渋沢の成功談は違う。お殿様に絶対頭が上がらなかった単なる「民」が、渋沢の尽力によって明らかに地位向上したのである。この部分において、渋沢の成功談は、普通の成功談と全然質が違うのだ。

 

本の感想とは関係なくなってしまったが、渋沢栄一の偉大さはなんとなく分かっていただけたものと思う。また、このようなことを理解すると、この本や本人の著書をいっそう興味深く読んでいただけるだろう。

 

 

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論語と算盤 (角川ソフィア文庫)

 

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『自立と孤独の心理学 不安の正体がわかれば心はラクになる』(PHP研究所)を読んで

簡単にまとめると、「正体不明の不安」の大半が「分離不安」によるものであり、これは幼児期の「愛着行動」を制限されたことが原因となっているという理論を説明する本なのだが、評価するのはなんとも難しい本だった。

その理由は以下の内容を読んでいただけると分かると思う。

まず、この本の基軸は、ボウルビィという人の、愛着行動、分離不安理論となっている。

 

具体的な「正体不明の不安」

この愛着行動や分離不安を説明する上で、まずはこれがどのような形となって現れるかを説明しなければなるまい。

 

そこで、人には正体不明の不安がある場合があるのだけど、これは

「怒りを無意識にも抑圧してしまう」
「家を離れることそれ自体に後ろめたさみたいなものを感じる」
「親しい人(主に恋人や配偶者)と一緒にいるのが苦痛だが離れることができない」
「人に気に入られるためならなんでもする(評価基準が自分にない)」
「何もしないというということができない(何もしていないと不安になってくる)」
「1人で何かしていることを楽しめない」
「自信がない」

といったような具体的な心情や行動となって現れる。

これらの「正体不明の不安」による困った感情や行動は、「愛着分離」から生じているのであると言う。

 

愛着行動とは何か

愛着行動とは、幼児期に母親に対して「愛着」しようとする「行動」のことで、具体的には、母親の膝の上に座りたい時に座ること、母親から無条件に受け容れられること、母親から拒否という制裁を受けないこと、である。

しかし、愛着行動を拒否された幼児は、母親から「分離」される「不安」を感じることになる。

このような幼児期の「不安」が「正体不明の不安」となって、その人に成人後も上に示したような悪影響を及ぼすというのが、この愛着行動、分離不安理論ということになる。

 

幼児期のことなので本人は必ずや無自覚

それで、この成人後の「分離不安」は、上にも書いてきたように「正体不明」であり、ほとんどの人は気づいていないという。
確かにそうである。幼児期のことを鮮明に覚えている人は、伝記や伝説上でしか出てこない。ほとんどの人は、幼児期のことなど覚えていないのだ。
また、厄介なことには、「表面的には子供を可愛がっている親」も、無意識的には子供を拒否している場合があると言う。分かりやすく言うと「異常に熱心な教育ママ」のことである。これは極端な例だから、母親が子供を支配しようとしていることが分かりやすいのだけど、これも程度問題で、表面的には分からない場合もある。

こういったわけで、「分離不安」を抱えている人は、ほぼ必ずその不安が正体不明となるわけである。

 

本の全体的な構成

これで、この本の基軸となる理論はだいたい理解していただけたと思うが、著者の加藤諦三氏もこの「正体不明の不安」に長年苦しめられていたということらしい。その経験者たる氏が言うには、この「正体不明の不安」の正体を知ることで、冒頭に示したような困った感情や行動を改善していくことができるらしい。

本の章題としては、
1.なぜ1人でいると不安になるか
2.相手を所有しようという気持ちには依存心が潜んでいる
3.しがみつくから相手に縛られる
4.人に嫌われたくないのは自分に自信がないから
5.なぜ自分の本当の心を偽るのか

となっている。

内容はまとまっていて、基軸となる理論の具体例や仕組みが、うまく説明されており、論理破綻などは起こっていないし、同じことが言葉を変えて何度も書かれており、丁寧でわかりやすい本であると思う。

 

個人的な意見

しかし、ここからが私の意見であるのだが、「納得はできるのであるが、スッキリしない」のである。というのも、恐らく、私はこの「分離不安」を経験していなくて、この理論が当てはまらないからである。だから、正直なところ、理論を理解はできるが分からないのである。

だから、分離不安が当てはまる人が読めば、かなりの良著かもしれない。だが、そうでない人、あるいは、この事実を受け容れられない人は、この本を読んでも私と同じような気持ちになると思う。

また、そもそも、精神的不安定の原因を全て「幼児期の成長過程」にもってくるのは無理がある。人は、その顔が皆違うように、生まれた時から性格も違うのであり、この点において、この理論には一般性がない。それに、ここに書かれているような困った感情や行動、またそのような心理状態は、誰にでも少しは備わっているものであり、「幼児期以外の体験」からも、「分離不安」が起こる可能性は十分にあり得る。また、「分離不安」以外の要因から、このような心理状態になる可能性も十分にあり得る。

このように書くと、加藤氏がいかにも無能のように思われるかもしれないが、それもそうではない。あとがきを読んでみると、この特殊性をよく分かった上で、この特殊な状況に当てはまる人だけを対象に、この本は書かれているのである。

それが証拠に、図書館から借りてきたこの本には、「異常な香水(アロマ)の臭い」が染み付いているし、ところどころ「ページを半分にまで折り曲げた跡」や「不自然な紙のゆがみ」がある。この本を読んで、大きく心を乱している人がいることは間違いないのだ。

また、当てはまらない人にとっても、これを読むことで「変な人」を理解する手助けになるし、「あの人もそういったかわいそうな幼児期があったのだろう」と思うことで、心が広くなる可能性もある。

このようなわけで、「評価が難しい」のであるが、また、同時に「一度は読む価値のある本」であると思う。

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