平田 圭吾のページ

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『学問のすすめ』現代語訳11 卑屈をやめて一人でも立ち上がること

三編3 第二条 内に居て独立の地位を得ることができないものは、外に在って外国人と接するときもまた、独立の権利を発揮することはできない。

 独立の気力がない人は必ず人によりすがる、人によりすがる人は必ず人を恐れるが、人を恐れる人は必ず人にこびへつらうものだ。常に人を恐れて人にこびへつらう人は次第にこれに慣れて、そのつらの皮は鉄のようになり、恥じるべきことをも恥じず、論ずべきことをも論じず、人を見ればただ腰を屈するだけとなる。いわゆる習い性とはこのことで、慣れて身についてしまったことは簡単には改めることはできない。

 例えば、現在は平民にも名字を名乗ること、馬に乗ることが許され、裁判所の体裁も改まって、表向きは士族と同等のようであるけれども、その習慣はいまだ何も変わっていない。平民の根性は依然としてもとの平民と異ならず、言語も下品で応接もイマイチ、目上の人の前では一言半句の理屈を言うこともできず、立てと言えば立ち、舞えと言えば舞い、その従順であることは、やせた飼い犬のようだ。実に無気無力の鉄面皮と言える。

 昔鎖国の時代に旧幕府のような窮屈な政治を行う時代もあった。けれども、これは、人民に気力がないことが政治に差支えとなるばかりか、かえって便利であったからだ。そのために、ことさらに国民を無智に陥れ、無理に対して従順になるようにすることが、役人の得意とすることになっていた。しかし、現在外国と交わるようになってから、このことによる大いなる弊害が出ることとなった。

 例えば、田舎の商人などが、内心は恐れながらも外国との交易に志して横浜に来るようなことがあれば、最初に外国人の骨格を見て驚き、金の多いのを見て驚き、商館が大きいのを見て驚き、蒸気船が速いのを見て驚き、もはや既に肝をつぶしながらも、なんとかこの外国人に近付いて取引をするに及び、今度はその駆け引きのするどさに驚き、または無理な理屈を言われればただ驚くだけでなくて、その威力にビビりあがってしまい、無理と知りながら大損害受け、さらに恥辱までをも被ることがある。 これは一人の損失ではない、一国の損失である。また、一人の恥辱ではない、一国の恥辱である。

 実に馬鹿らしいことであるようだけれども、先祖代々独立の気を吸っていない町人根性、武士には苦しめられ、裁判所には叱られ、最も身分の軽い足軽にあっても旦那さまとあがめる魂は腹の底まで腐れ付き、一朝一夕に洗うことはできない。このような臆病神の手下どもが、かの大胆不敵な外国人に会って、肝を抜かれるのは無理からぬことである。これが即ち、内に居て独立を得ざる者は、外に在っても独立することができないという証拠である。

 

【解説】卑屈をやめて一人でも立ち上がること

 ここで、福沢は独立の気力がない者は、卑屈な人間となり、対外的にも損害を被ることを説いている。これは確かにそのとおりである。いわゆるブラック企業に勤めて言いなりとなり、何のアクションも起こさない人を社畜と言うが、この社畜こそ、独立の気力がない卑屈な人間ということになるだろう。無理を言われているのに、反論をしようとさえ思わないばかりか、疑問も持たずにその指示に従い、他に道はないと思込み、自分の独立の気力によって新たな道を模索しようとしない。

 だが、その反面で、現代社会の構造上、そのようなブラック企業に勤めなければ、明日の生活がままならず、仕方なくそうなっているという事情もあるだろう。確かに、いかに独立の気力があっても、大企業が隅々まで入り込んでいるうえに、人口減少ですべてが先細りとなったこの日本で実際に独立するには、よほどの豪運が必要である。

 しかし、だからと言って、独立の気力を捨てて卑屈となっていい、というわけではない。弱者の力が力となり得るのは、その小さな力がまとまり、大きな数となったときだけだ。さすがのブラック企業も、社員はすぐにやめてしまう上に、社員の募集に応じる人もいないということになれば、事業は立ち行かなくなるだろう。やはり、その一人が独立の気力を持ち、立ち上がって行動することが重要なのだ。そして、その結果として、国内の労働環境が健全となり、世界における日本の地位も向上する。

 ここには、そういった一人で立ち上がるような胆力を持った人の代表として、西郷隆盛とその著書である「遺訓」を紹介する。西郷隆盛は、最近大河ドラマで扱われたが、ドラマでも描写のあったように、筋を通すことを第一として、島送りや左遷といった、とても普通の人間では堪え得ないような理不尽を何度も食らった人である。卑屈でない人間の代表とも言えるだろう。ぜひとも見習いたい。

 

 

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『学問のすすめ』現代語訳10 人頼みの責任転嫁が国をダメにする

三編2 一身独立して一国独立すること

 前に述べたように、国と国とは同等であるのだけど、国中の人民に独立の気力がないときは一国の権利を思う存分発揮することはできない。その次第は次の三カ条である。

 

第一条 独立の気力なき者は、国を思うこと深切ならず。 

 独立とは、自分で自分の身を支配し、他によりすがる心のないことを言う。自分で物事の道理や是非を弁別して処置を誤ることがないならば、他人の智恵によりすがることなく独立している。自分の心や体を労し、自分の生計を立てているならば、他人の財によりすがることなく独立している。

 人々がこの独立の心もなく、ただ他人の力によりすがろうとだけするのならば、全国の人はよりすがる人ばかりになってしまって、これを引き受ける人はいなくなってしまう。これを例えると、目の不自由な人の行列に付き添いの人がいないようなもので、とても不都合なことではないか。

 ある人は、「民はこれに由(よ)らしむべし、これを知らしむべからず」と言った。つまり、世の中には目の見開いている人が千人いれば、目の見開いていない人も千人いるのであり、智者は上に居て庶民を支配し、これを従わせればいいのだと。この議論は、孔子様の流儀であるのだけど、実は大きく間違っている。

 一国中に人を支配するほどの才徳を備えた人は千人に一人くらいしかいないだろう。もしも、人口百万人の国があったとすると、ここには千人しか智者がいないくて、残りの九十九万人余りの人は無智の小民であるということになる。

 この千人の智者の才徳でこの小民を支配し、あるいは子のように愛し、あるいは羊のように養い、あるいは威圧したりなでたりして、恩も威厳もともに行われ、その向かうところを示したとしよう。そうすれば、小民も知らず知らずのうちにお上の命令に従い、盗みや人殺しのような事件はなく、国内が安穏に治まるということになる。しかし、そもそもこの国の人民が、主と客の二つに分かれて、千人の智者が主(あるじ)となって、いいように国を支配しているのなら、残りの人は皆が皆、何も知らないお客様ということになる。

 既にお客様であるのなら心配するようなことも少なく、ただ主人を頼りにして自分の身に引き受けることなどはない。ならば、当然のように主人ほど国のことを心配しなくなるだろうが、これは実に水臭い有様だ。

 こういったことは、国内のことであるならばそれほどのことではないのだけど、いったん外国との戦争ということになるとその不都合であることは簡単に想像できる。無智無力の小民は、さすがに武器を逆さまに持ってしまうということはないだろうけど、自分達はお客様であるから「命まで捨てるのはやりすぎだ」と言って逃げる者は多いに決まっている。こんな状態では、国の人口は百万人でも、いざ国を守るということになったら、人の数はとても少なくて、とてもではないけれど一国の独立を保つことなどできない。


 このような次第であるから、外国から我が国を守ろうとするならば、自由独立の気風を全国に充満させて、国中の人々に貴賤上下の区別もなくし、その国は自分の国であると各自が自分の身に引き受けて、智者も愚者も目が見開いている人もそうでない人も、おのおのが国民の分を尽くさなければならない。

 イギリス人はイギリスをもって我が本国と思い、日本人は日本国をもって我が本国と思い、その本国の土地は他人の土地でなくて我が国人の土地であるからには、本国のことを思うことは我が家を思うかのようにし、国のために財を失うのみならず、命さえ投げ出しても惜しむことはない。これがすなわち報国の大義である。

 もとより、国の政治を取り行うのは政府であって、その支配を受ける者は国民であるけれども、これはただ便利のために双方の持ち場を分けているだけである。一国全体の面目に関わることになったら、人民の職分(やるべきこと)ではないとして、政府にのみ国を預けて、かたわらでこれを見物するだけということがあってよいだろうか。それでいいはずがない。

 既に日本国の誰、イギリスの誰と、その姓名の肩書に国の名があるのであるから、その国に住んで起居眠食自由自在である権利がある。既にその権利がある以上は、必然的にそこで果たすべき職分というものがあるのだ。


 昔、日本の戦国時代、駿河今川義元が数万の兵を率いて織田信長を攻めようとした。このとき、信長は桶狭間に伏兵をしかける策略を立て、今川の本陣に迫って義元の首が挙げられた。すると、駿河の軍勢は、くもの子を散らしたように戦いもせずに逃げてしまった。こうして、当時名が高かった駿河の今川政府も一瞬にして滅び、跡形も無くなってしまった。 

 また一方で、最近、二三年前に行われたフランスとプロイセンの戦争(普仏戦争)では、戦いが始まってすぐにフランス帝ナポレオン三世が生け捕りにされた。しかし、フランス人はこれで望みを失うばかりか、ますます奮発して防戦を行い、骨をさらし血を流して、数か月籠城して後、和睦することとなった。しかし、フランスは以前のフランスと何の変わりもなかった。

 先の今川氏の始末と比べて同じように語ることなどできない。 それはどうしてなのか。駿河の人民はただ義元一人に頼るばかりで、その身はお客様のつもりで、駿河の国を我が本国と思う者もなく、一方で、フランスには報国の士民が多くて国の難を各自自分の身に引き受け、人から勧められるまでもなく自ら本国のために戦う者があった。だからこそ、このような違いが生まれたのだ。

 このように考えてみれば、外国に対し自国を守るに当たって、その国人に独立の気力がある者は国を思うことが深切なのでり、独立の気力がない者は不深切ということになる。このことは、この話から類推して考えてみれば分かることである。

 

【解説】人頼みの責任転嫁が国をダメにする 

 ここの話にはピンとこなかった方が多いかもしれない。だが、これは、今まで解説で述べてきたように、時代の違いからくるやむを得ないことである。当時、日本は野蛮未開で武力も整っておらず、欧米諸国から宣戦布告されれば、明日のわが身も知れないという危機的状況だった。

 だからこそ、福沢は国防の重要性を主題としながら、「独立の気力ある者こそ、国を思うこと親切である」と説いたのだ。

 だが話の本筋を思い出していただきたい。最初に「目の不自由な人の行列に付き添いの人がいない」という例えもあったように、福沢は、「人頼みで責任転嫁をしていれば国はダメになる」ということが言いたいのだ。

 これを現代日本にあてはめてみると、まずそもそも現在では国民の選挙によって政府が選ばれる。この上で、政府が「国民がわれわれを選んだのだから、われわれは何をしてもいい、未来に何が起きても悪いのは国民だ」と開き直り、一方で国民も、「選挙では何も変わらないから選挙には行かないし、勝手に決まった政治家どもが勝手にやることだから、未来に何が起きても政府が悪い、自分はやらかした政府を批判するだけだ」とするのならば、これは、主客どころか、日本には「お客様」しかいないことになってしまう。どこにも責任の所在がないのだ。

 このくらいならば、せめて政府だけでも責任を感じる制度となるプラトン哲人政治や王政復古の君主制、あるいは、孔子の牧家的理想政治のほうが民主主義よりまだマシということになる。

 例えば、ソクラテスプラトンの活躍した古代ギリシア都市国家アテナは、直接民主主義制度であった。けれど、それでも、プラトンはその主著国家〈上〉 (岩波文庫)や『法律』で民主主義の欠点を指摘し、民主主義を否定した。「民衆の投票で政治を決めるということにすると、それは必ずや人気投票になり、社会を治める能力のある人ではなく、人々へのご機嫌取りがうまいだけのお調子者が選ばれることになる」と。

 現代の心ある人の中には、昨今のトランプ大統領の大衆政治、ポピュリズムを危惧する方もあるだろう。しかし、これはまさに、二千年以上も前にプラトンが指摘した民主主義の欠点である。

 いかに人類が進歩していないか、ということに興味を持たれた方は、ぜひともプラトンを読まれたい。アマゾンを確認したところ『法律』は絶版となっているようだった。プラトンソクラテスを抑えるという意味では、『国家』と『ソクラテスの弁明・クリトン』の二タイトルが必須、『国家』にはかの有名な次元論の先駆でもある「イデア論」(イデアは英語のideaーアイディアの語源)についても語られている。

 

    

 

 

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『学問のすすめ』現代語訳9 日本屈辱の歴史である不平等条約は頭が弱いから押し付けられた

三編1 国は同等なること

 おおよそ、人という名さえあれば、富んでいても貧しくても、強くても弱くても、人民でも政府でも、その権利(権義)において異なることがないということは、第二編に記したところである。(二編にある権理通義の四文字を略して、ここにはただ権義と記した。いずれの語も、「right(権利・正確な)」に当たる。)今、この意味を押し広めて国と国との間柄について論じよう。

 国というものは、人の集まっているものであって、日本国は日本人の集まったものであり、イギリスはイギリス人の集まったものである。日本人もイギリス人も天地の間にある同じ人であるから、互いにその権利を妨げることがあってはならない。この上で、一人が一人に向かって害を加えることが筋違いということならば、二人が二人に向かって害を加えることもまた筋違いになるはずだ。これは、百万人でも千万人でも同様のことであって、物事の道理は人数が多いか少ないかということによって変わることではない。

 今、世界中を見渡してみると、文明も開化して文字も武備も盛んな富強の国もあれば、蛮野未開で文武とも不行き届きな貧弱な国もある。一般的には、ヨーロッパやアメリカなどの諸国は富んで強く、アジアやアフリカなどの諸国は貧しくて弱い。けれども、この貧富と強弱は国の有様であるからには、同じでないのが当然だ。そうであるのだけど、今、自国が富強であるという勢いによって、貧弱な国に無理を加えるのならば、いわゆる力持ちが腕力で病人の腕を握り折るようなことと何の違いもなく、国の権利という観点から許してはならないことである。

 話を近くして、われらが日本国にしても、現在の有様では西洋諸国の富強に及ばないところもあるけれど、一国の権利においては毛ほどの差もないはずだ。だから、道理に外れて曲がったことを被るような日が到来したのならば、世界中を敵に回しても恐れるには足りない。初編の第三段落前半に述べた、日本国中の人民は一人残らず命を捨ててでも国の威光を落とさないようしなければならない、とはこのことである。

 それだけではなく、貧富富強の有様は、生まれついた天然のものではなくて、人の努力次第で移り変わるものであり、今日の愚人も明日は智者となり得るのだし、昔からの富強も今日では貧弱となり得る。古今、こういった例は少なくはない。我らが日本国人も今から学問に志して、気力を確かなものにして、まずは一身の独立を謀り、そうして一国の富強にまで致すことができるのならば、どうして西洋人の富強を恐れる必要があろうか。道理を備えているものとは交わり、道理を備えていないものは打ち払うのみである。一身独立して一国独立するとはこのことである。

 

【解説】日本屈辱の歴史である不平等条約は頭が弱いから押し付けられた

  ここに言うような、「自国(欧米列強)の富強なる勢いをもって、貧弱なる国(日本)に加えられた無理」としては、やはり「不平等条約」が最も有名であろう。欧米諸国が強かったから、「自国民の裁判は日本で行わせない治外法権」がまかり通って外国人に罪を償わせることができず、「輸入品に自主的に関税をかける関税自主権」が認められずに多くの国益を失った。実に日本が弱かったことによる屈辱であると言える。

 しかし、日本が弱かったのは武力ではない、弱かったのは頭のほうなのだ。どういったことかと言えば、立場を逆にして考えてみればわかる。例えば、現在の中国は著作権意識が非常に乏しい。ブランドものやらなんやらの偽物はたいてい中国製だ。これは中国国内で著作権に関する法律が整っておらず、中国国民の著作権に関する意識が低いからこのようになっている。

 わが日本として、このような意識が低い国と「著作権に関する平等な条約」を結べるだろうか。もし仮に、そのような条約を結べば、わが日本国民が律義に条約を守る一方で、野蛮未開な中国人は条約の意味も分からず、ただただわが日本のみ無駄に約束事を守り時には損害を被り、かの野蛮未開の中国人は偽物を大量生産して利得を得るということになってしまう。そのような国とは平等な条約など結べない。

 これと同様に、当時の欧米諸国は、野蛮未開な日本と平等な条約など結べなかったのだ。契約書の「け」の字も知らず、旦那の顔色を見て、手もみをしては商品の値段を変えるような商人しかいない国に関税自主権を与えることができるだろうか。あるいは、殿様の不祥事をかぶった下級武士が忠義の臣下と称えられ、喜び勇んでハラキリをするような異常な裁判制度の国に、自国国民の裁判を任せることができるだろうか。そんなことはできるはずがないのだ。

 だから、不平等条約とは、日本に武力がなかったから押し付けられたものではなく、日本が野蛮未開で頭が悪かったから押しつけられたものなのだ。

 当時の不平等条約に屈辱を感じるのならば、日本に武力がなかったことではなくて、野蛮未開で頭が悪かったことにこそ屈辱を感じなければならない。何度も言うように、国の恥辱に関するすべての罪は国民の無学文盲にあるのだ。

 ここに述べたようなことは、日本近代史 (ちくま新書)に詳しく書かれている。詳しくと言っても、幕末から第二次大戦前までの歴史を網羅した歴史書であるからには、そこに割かれた文字数は少ない。それでも、上に述べたことの経緯は十分に分かるだろう。新書にしてはかなり厚い本だが、日本の近代史をよくこれだけの分量にうまく収めたものだ、としか言えない良著となっている。幕末~第二次大戦前までの日本の歴史に興味のある方は、ぜひとも手に取っていただきたい。
※画像はアマゾンへのリンク 

 

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