平田 圭吾のページ

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『学問のすすめ』現代語訳12 虎の威を借る狐ーー国民の主権を盗む政治家

三編4 第三条 独立の気力がない者は、人に頼んで悪事をすることがある。

 旧幕府の時代には名目金と言って、御三家と言われる権威の強い大名の名目を借りて金を貸し、随分無理な取引をしていたこともあった。このことは甚だにくむべきことである。自分の金を貸して返さない者があるのなら、再三再四力を尽くして政府に訴えるべきだ。そうであるのに、この政府の名目ばかりを恐れて訴えることを知らず、訴えによって金を返してもらうばかりか、汚くも他人の名目を借り、あるいは暴威を後ろ盾にして返金を促すとはなんとも卑怯なやり方ではないか。

 現在、名目金のことは聞かないけれども、外国人の名目を借りている者がいるのではないか。わたしはまだその確証を得たことがないので、それをここに論ずることはできないけれども、今までのことを思うと、こういったことが現在あっても何もおかしいことはない。

 この後、万一にも外国人と雑居するようなことがあった場合、その名目を借りて悪だくみをするような者があったのならば、国の災いは実に言うまでもないことである。だから、国民に独立の気力がないのは便利だからといって、油断をしてはならない。災いは思わぬところに起こるものだ。国民に独立の気力がいよいよ少なければ、国を売るという災いもまた従ってますます大きくなるというものだ。すなわち、この第三条に言った、人に依頼して悪事をするとはこのことである。

 

 これらの三カ条(1.独立の気力がない者は国を思うことも親切でない、2.内で独立していなければ外にも独立できない、3.独立の気力がないと人に頼んで悪事をする)に言うところは、全部、人民に独立の心が無いことによって生じる災害である。いやしくも今の世に生まれて愛国の思いがある者は、公私を問わず、まず自分の独立を考え、余力があったら他人の独立を助けるべきである。

 父兄は子弟に独立を教え、教師は生徒に独立を勧め、士農工商みなともに独立して国を守ならなければならない。概してこれを言えば、誰かを束縛してひとり自分で心配していることは、人を放って一緒に苦楽を共にすることに及ばないのだ。
(明治六年 十二月出版)

 

【解説】虎の威を借る狐 ーー国民の主権を盗む政治家

 ここに言うことは、一言で言えば、虎の威を借る狐のことである。現在では、反社会的勢力の排除も進み、そういった話はかなり聞かなくなったが、 ○○組(暴力団の名前)と言えば、自分が強くなったような気がするのか、気にくわないことがあると、「オレの知り合いには○○組の人間がいる」などと、ハッタリを言って人にマウンティングしようとする人が多くいた。現在でも、学生ならば、「○○中学(高校)の○○(有名な不良)に言うぞ」とかいう話はあるのだろうか。

 いずれにせよ、こういったことを言う人間は、「自分が弱い」と内心では分かっているから、強いと思われている人の名を出すのであり、こういったことを言った時点で、「自分は(単体では)弱いです」と白状しているようなものなのだ。このような人間が「他によりすがることのない独立の気力」を少しでも持ち合わせているだろうか。持ち合わせているはずがない、最初から自分の力を頼みとせず、人の力によりすがっている。

 福沢は、このような「虎の威を借る狐」が、国に害をもたらす、とここで主張しているが、実にそうである。「虎の威を借りる」というその行為は、まさに盗みであるからだ。自分が弱いのに、強いものの力を勝手に借りようとするならば、「勝手に持っていく」という点において、これはまさに盗みとしか言えない行為である。ところで、ここで盗みをはたらく者は、あちらでも必ず盗む。盗みを好むずるい人間は、「バレないだろう」「自分に害が及ばないだろう」と思うと、どこででも盗む。まさに隙あらば盗む。このように盗む人間が増えれば、それは必ずや一国の患いとなるだろう。

 また、「虎の威を借りて”権力”を盗む」という意味では、政治家が国民の主権を盗むような事態、分かりやすい例ではナチスドイツや、プーチンロシアのような状態、も十分考えられるだろう。あからさまにするなら「自分たちは選挙で選ばれたのだから何をしてもいい」ということであるのだが、それではすぐにバレてしまう。だから、現代における主権の盗み方は巧妙かつ複雑だ。相手の手の内を知らなければ盗まれていると気付けない部分もある。このため、そういった手の内を知る手段として、その実例がたくさん書かれている『韓非子』を紹介したい。もちろん、歴史上のことであるから結果も出ている。

 ここで、『韓非子』を読む際に、主権者である君主を、現在は民主主義であるから、「君主=国民の大多数」と、ほぼそのまま置き換えて考えていただければ、必ずやこの「権力を盗む」ということに関して、興味深く考えていただけるだろう。そもそも韓非子は、歴史の読み物としても大変面白く、文体としても名文としか言えない美しいものとなっている。確かに少し難しいが、下手な歴史書歴史小説を読むよりは、はるかに有意義な時間を過ごせることは間違いない。ここには推薦書として、岩波文庫の全訳(全四巻)を紹介しておく、これを機会にぜひとも読まれたい。

 

   

 

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『学問のすすめ』現代語訳11 卑屈をやめて一人でも立ち上がること

三編3 第二条 内に居て独立の地位を得ることができないものは、外に在って外国人と接するときもまた、独立の権利を発揮することはできない。

 独立の気力がない人は必ず人によりすがる、人によりすがる人は必ず人を恐れるが、人を恐れる人は必ず人にこびへつらうものだ。常に人を恐れて人にこびへつらう人は次第にこれに慣れて、そのつらの皮は鉄のようになり、恥じるべきことをも恥じず、論ずべきことをも論じず、人を見ればただ腰を屈するだけとなる。いわゆる習い性とはこのことで、慣れて身についてしまったことは簡単には改めることはできない。

 例えば、現在は平民にも名字を名乗ること、馬に乗ることが許され、裁判所の体裁も改まって、表向きは士族と同等のようであるけれども、その習慣はいまだ何も変わっていない。平民の根性は依然としてもとの平民と異ならず、言語も下品で応接もイマイチ、目上の人の前では一言半句の理屈を言うこともできず、立てと言えば立ち、舞えと言えば舞い、その従順であることは、やせた飼い犬のようだ。実に無気無力の鉄面皮と言える。

 昔鎖国の時代に旧幕府のような窮屈な政治を行う時代もあった。けれども、これは、人民に気力がないことが政治に差支えとなるばかりか、かえって便利であったからだ。そのために、ことさらに国民を無智に陥れ、無理に対して従順になるようにすることが、役人の得意とすることになっていた。しかし、現在外国と交わるようになってから、このことによる大いなる弊害が出ることとなった。

 例えば、田舎の商人などが、内心は恐れながらも外国との交易に志して横浜に来るようなことがあれば、最初に外国人の骨格を見て驚き、金の多いのを見て驚き、商館が大きいのを見て驚き、蒸気船が速いのを見て驚き、もはや既に肝をつぶしながらも、なんとかこの外国人に近付いて取引をするに及び、今度はその駆け引きのするどさに驚き、または無理な理屈を言われればただ驚くだけでなくて、その威力にビビりあがってしまい、無理と知りながら大損害受け、さらに恥辱までをも被ることがある。 これは一人の損失ではない、一国の損失である。また、一人の恥辱ではない、一国の恥辱である。

 実に馬鹿らしいことであるようだけれども、先祖代々独立の気を吸っていない町人根性、武士には苦しめられ、裁判所には叱られ、最も身分の軽い足軽にあっても旦那さまとあがめる魂は腹の底まで腐れ付き、一朝一夕に洗うことはできない。このような臆病神の手下どもが、かの大胆不敵な外国人に会って、肝を抜かれるのは無理からぬことである。これが即ち、内に居て独立を得ざる者は、外に在っても独立することができないという証拠である。

 

【解説】卑屈をやめて一人でも立ち上がること

 ここで、福沢は独立の気力がない者は、卑屈な人間となり、対外的にも損害を被ることを説いている。これは確かにそのとおりである。いわゆるブラック企業に勤めて言いなりとなり、何のアクションも起こさない人を社畜と言うが、この社畜こそ、独立の気力がない卑屈な人間ということになるだろう。無理を言われているのに、反論をしようとさえ思わないばかりか、疑問も持たずにその指示に従い、他に道はないと思込み、自分の独立の気力によって新たな道を模索しようとしない。

 だが、その反面で、現代社会の構造上、そのようなブラック企業に勤めなければ、明日の生活がままならず、仕方なくそうなっているという事情もあるだろう。確かに、いかに独立の気力があっても、大企業が隅々まで入り込んでいるうえに、人口減少ですべてが先細りとなったこの日本で実際に独立するには、よほどの豪運が必要である。

 しかし、だからと言って、独立の気力を捨てて卑屈となっていい、というわけではない。弱者の力が力となり得るのは、その小さな力がまとまり、大きな数となったときだけだ。さすがのブラック企業も、社員はすぐにやめてしまう上に、社員の募集に応じる人もいないということになれば、事業は立ち行かなくなるだろう。やはり、その一人が独立の気力を持ち、立ち上がって行動することが重要なのだ。そして、その結果として、国内の労働環境が健全となり、世界における日本の地位も向上する。

 ここには、そういった一人で立ち上がるような胆力を持った人の代表として、西郷隆盛とその著書である「遺訓」を紹介する。西郷隆盛は、最近大河ドラマで扱われたが、ドラマでも描写のあったように、筋を通すことを第一として、島送りや左遷といった、とても普通の人間では堪え得ないような理不尽を何度も食らった人である。卑屈でない人間の代表とも言えるだろう。ぜひとも見習いたい。

 

 

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『学問のすすめ』現代語訳10 人頼みの責任転嫁が国をダメにする

三編2 一身独立して一国独立すること

 前に述べたように、国と国とは同等であるのだけど、国中の人民に独立の気力がないときは一国の権利を思う存分発揮することはできない。その次第は次の三カ条である。

 

第一条 独立の気力なき者は、国を思うこと深切ならず。 

 独立とは、自分で自分の身を支配し、他によりすがる心のないことを言う。自分で物事の道理や是非を弁別して処置を誤ることがないならば、他人の智恵によりすがることなく独立している。自分の心や体を労し、自分の生計を立てているならば、他人の財によりすがることなく独立している。

 人々がこの独立の心もなく、ただ他人の力によりすがろうとだけするのならば、全国の人はよりすがる人ばかりになってしまって、これを引き受ける人はいなくなってしまう。これを例えると、目の不自由な人の行列に付き添いの人がいないようなもので、とても不都合なことではないか。

 ある人は、「民はこれに由(よ)らしむべし、これを知らしむべからず」と言った。つまり、世の中には目の見開いている人が千人いれば、目の見開いていない人も千人いるのであり、智者は上に居て庶民を支配し、これを従わせればいいのだと。この議論は、孔子様の流儀であるのだけど、実は大きく間違っている。

 一国中に人を支配するほどの才徳を備えた人は千人に一人くらいしかいないだろう。もしも、人口百万人の国があったとすると、ここには千人しか智者がいないくて、残りの九十九万人余りの人は無智の小民であるということになる。

 この千人の智者の才徳でこの小民を支配し、あるいは子のように愛し、あるいは羊のように養い、あるいは威圧したりなでたりして、恩も威厳もともに行われ、その向かうところを示したとしよう。そうすれば、小民も知らず知らずのうちにお上の命令に従い、盗みや人殺しのような事件はなく、国内が安穏に治まるということになる。しかし、そもそもこの国の人民が、主と客の二つに分かれて、千人の智者が主(あるじ)となって、いいように国を支配しているのなら、残りの人は皆が皆、何も知らないお客様ということになる。

 既にお客様であるのなら心配するようなことも少なく、ただ主人を頼りにして自分の身に引き受けることなどはない。ならば、当然のように主人ほど国のことを心配しなくなるだろうが、これは実に水臭い有様だ。

 こういったことは、国内のことであるならばそれほどのことではないのだけど、いったん外国との戦争ということになるとその不都合であることは簡単に想像できる。無智無力の小民は、さすがに武器を逆さまに持ってしまうということはないだろうけど、自分達はお客様であるから「命まで捨てるのはやりすぎだ」と言って逃げる者は多いに決まっている。こんな状態では、国の人口は百万人でも、いざ国を守るということになったら、人の数はとても少なくて、とてもではないけれど一国の独立を保つことなどできない。


 このような次第であるから、外国から我が国を守ろうとするならば、自由独立の気風を全国に充満させて、国中の人々に貴賤上下の区別もなくし、その国は自分の国であると各自が自分の身に引き受けて、智者も愚者も目が見開いている人もそうでない人も、おのおのが国民の分を尽くさなければならない。

 イギリス人はイギリスをもって我が本国と思い、日本人は日本国をもって我が本国と思い、その本国の土地は他人の土地でなくて我が国人の土地であるからには、本国のことを思うことは我が家を思うかのようにし、国のために財を失うのみならず、命さえ投げ出しても惜しむことはない。これがすなわち報国の大義である。

 もとより、国の政治を取り行うのは政府であって、その支配を受ける者は国民であるけれども、これはただ便利のために双方の持ち場を分けているだけである。一国全体の面目に関わることになったら、人民の職分(やるべきこと)ではないとして、政府にのみ国を預けて、かたわらでこれを見物するだけということがあってよいだろうか。それでいいはずがない。

 既に日本国の誰、イギリスの誰と、その姓名の肩書に国の名があるのであるから、その国に住んで起居眠食自由自在である権利がある。既にその権利がある以上は、必然的にそこで果たすべき職分というものがあるのだ。


 昔、日本の戦国時代、駿河今川義元が数万の兵を率いて織田信長を攻めようとした。このとき、信長は桶狭間に伏兵をしかける策略を立て、今川の本陣に迫って義元の首が挙げられた。すると、駿河の軍勢は、くもの子を散らしたように戦いもせずに逃げてしまった。こうして、当時名が高かった駿河の今川政府も一瞬にして滅び、跡形も無くなってしまった。 

 また一方で、最近、二三年前に行われたフランスとプロイセンの戦争(普仏戦争)では、戦いが始まってすぐにフランス帝ナポレオン三世が生け捕りにされた。しかし、フランス人はこれで望みを失うばかりか、ますます奮発して防戦を行い、骨をさらし血を流して、数か月籠城して後、和睦することとなった。しかし、フランスは以前のフランスと何の変わりもなかった。

 先の今川氏の始末と比べて同じように語ることなどできない。 それはどうしてなのか。駿河の人民はただ義元一人に頼るばかりで、その身はお客様のつもりで、駿河の国を我が本国と思う者もなく、一方で、フランスには報国の士民が多くて国の難を各自自分の身に引き受け、人から勧められるまでもなく自ら本国のために戦う者があった。だからこそ、このような違いが生まれたのだ。

 このように考えてみれば、外国に対し自国を守るに当たって、その国人に独立の気力がある者は国を思うことが深切なのでり、独立の気力がない者は不深切ということになる。このことは、この話から類推して考えてみれば分かることである。

 

【解説】人頼みの責任転嫁が国をダメにする 

 ここの話にはピンとこなかった方が多いかもしれない。だが、これは、今まで解説で述べてきたように、時代の違いからくるやむを得ないことである。当時、日本は野蛮未開で武力も整っておらず、欧米諸国から宣戦布告されれば、明日のわが身も知れないという危機的状況だった。

 だからこそ、福沢は国防の重要性を主題としながら、「独立の気力ある者こそ、国を思うこと親切である」と説いたのだ。

 だが話の本筋を思い出していただきたい。最初に「目の不自由な人の行列に付き添いの人がいない」という例えもあったように、福沢は、「人頼みで責任転嫁をしていれば国はダメになる」ということが言いたいのだ。

 これを現代日本にあてはめてみると、まずそもそも現在では国民の選挙によって政府が選ばれる。この上で、政府が「国民がわれわれを選んだのだから、われわれは何をしてもいい、未来に何が起きても悪いのは国民だ」と開き直り、一方で国民も、「選挙では何も変わらないから選挙には行かないし、勝手に決まった政治家どもが勝手にやることだから、未来に何が起きても政府が悪い、自分はやらかした政府を批判するだけだ」とするのならば、これは、主客どころか、日本には「お客様」しかいないことになってしまう。どこにも責任の所在がないのだ。

 このくらいならば、せめて政府だけでも責任を感じる制度となるプラトン哲人政治や王政復古の君主制、あるいは、孔子の牧家的理想政治のほうが民主主義よりまだマシということになる。

 例えば、ソクラテスプラトンの活躍した古代ギリシア都市国家アテナは、直接民主主義制度であった。けれど、それでも、プラトンはその主著国家〈上〉 (岩波文庫)や『法律』で民主主義の欠点を指摘し、民主主義を否定した。「民衆の投票で政治を決めるということにすると、それは必ずや人気投票になり、社会を治める能力のある人ではなく、人々へのご機嫌取りがうまいだけのお調子者が選ばれることになる」と。

 現代の心ある人の中には、昨今のトランプ大統領の大衆政治、ポピュリズムを危惧する方もあるだろう。しかし、これはまさに、二千年以上も前にプラトンが指摘した民主主義の欠点である。

 いかに人類が進歩していないか、ということに興味を持たれた方は、ぜひともプラトンを読まれたい。アマゾンを確認したところ『法律』は絶版となっているようだった。プラトンソクラテスを抑えるという意味では、『国家』と『ソクラテスの弁明・クリトン』の二タイトルが必須、『国家』にはかの有名な次元論の先駆でもある「イデア論」(イデアは英語のideaーアイディアの語源)についても語られている。

 

    

 

 

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