平田 圭吾のページ

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西郷隆盛『遺訓 現代語訳』より、「遺訓の由来」

電子書籍として発売中の『遺訓 現代語訳』の途中に挿入されている本文の由来を説明する文章です。

『遺訓 現代語訳』には、ここで紹介する、遺訓43章(本編41章・追加2章)、及び問答14章(問4章・答7章・補遺3章)と、さらに付録として、途中で西郷が研究するようにとして紹介している「伯夷頌」を収録しています。

内容の気になる方は是非ともご購入ください。

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遺訓の由来

 この『遺訓』は、明治三年ころ、数十人の有志が、西郷のもとで教えを請うた際の記録である。ゆえに、西郷が直接書いたものでなく、この時に話を聞いていた人が、それぞれの聞いた話を持ち寄り、有志の間で共有したものということになる。このために、本文には、「とぞなり」など伝聞を示す記述があるし、全てを西郷の発言として読んでいると、意味を見失う場合がある。
 このように有志の間で大事にされていた『遺訓』であるが、その後、三矢藤太郎により、明治二十三年に初めて『西郷翁遺訓』として印刷された。また、明治二十九年に、片淵琢が『西郷南洲先生遺訓』として、これを東京で印刷し、その後広く読まれるようになったとされている。

 

問答の由来

 これ以後の『問答』には、ここまでの『遺訓』とは違う経緯がある。もと、西郷の妹婿(むこ)の姉の子である岸良眞二郎が、ここにある「問一~問四」を西郷に質(ただ)したことがきっかけとなり、西郷自身が筆を執り、「答一~答七」の部分を書いたとされている。
 その後、西郷の叔父(おじ)に当たる椎原與右衛門國幹が、これを求めたため、西郷はもう一度筆を執り、これを叔父のもとへ送ったとのことである。このような経緯のあるこの『問答』は、初版である三矢本には収録されている。最後にある『補遺』は、訓読すると「遺(のこ)すを補う」であり、一度答えを送った後で、誤解を恐れた西郷が、さらに付け足して答えたものではないかと思われる。
 また、もとの編集では、問一~問四が全て書かれた後に、答一~答七が載せられている。しかし、この編集方法であると少し分かりにくいため、問に対応する答えが横並びとなるよう編集し直した。

 

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