平田 圭吾のページ

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西郷隆盛『遺訓 現代語訳』より、「二九、道を行う者 その二」

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二九、道を行う者 その二

道を行う者は、固(もと)より困厄(こんやく)に逢(あ)うものなれば、如何(いか)なる艱難(かんなん)の地に立つとも、事の成否身の死生抔(など)に、少しも関係せぬもの也。事には上手下手有り、物には出来る人出来ざる人有るより、自然心を動かす人も有れども、人は道を行うものゆえ、道を蹈(ふ)むには上手下手も無く、出来ざる人も無し。故(ゆえ)に只管(ひたすら)道を行い道を楽しみ、若(も)し艱難(かんなん)に逢(お)うて之(これ)を凌(しの)がんとならば、弥々(いよいよ)道を行い道を楽しむ可(べ)し。予壮年より艱難と云(い)ふ艱難に罹(かか)りしゆえ、今はどんな事に出会うとも、動揺(どうよう)は致すまじ、夫(そ)れだけは仕合(しあわ)せなり。

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◆現代語訳◆

 道を行う者は、そもそも困窮や災難にあっているのであるから、どんな困難の地に立ったとしても、事の成否や身の死生になどといったことは、少しも関係ないはずである。事には上手と下手があり、物には出来る人と出来ない人があるから、自然と心を(道を行うことから)動かしてしまう者もいる。しかし、人は誰でも道を行うのであるから、道を踏むのに上手下手もなく、出来ない人もいない。だから、ただひたすらに道を行って道を楽しみ、もし困難に遭遇してこれを凌ぐこととなったら、いよいよ道を行って道を楽しむようにするのだ。私は、壮年から困難という困難に出会っているから、今はどんな事に出会っても、動揺することなどない。それだけは幸せなことだ。

 

◆解説◆

 前章を読んで道を行おうと思った方も、ここを読むと、やはりやめようかと思われるかもしれない。というのも、いきなり「道を行う者は、固より困厄に逢うものなれば」とあるからだ。
 この真意を知るには、『論語』を引かなければならない。『論語・泰伯第八』には、「曾子(そうし)曰く、士は以(も)て弘毅(こうき)ならざるべからず。任重くして道遠し。仁(じん)以て己の任と為す。亦(また)重からずや。死して後已(や)む。亦遠からずや」とある。凡人を脱して英雄、あるいは君子たるべき人物にならんとする者が、凡人と同じことをしていられるはずがない。必ずや凡人の背負っている荷物よりも、大きな荷物を背負って、長い道のりを生きることとなるだろう。そうでなければ、英雄や君子たるべき人物たり得ることはない。
 また、途中に、「道を蹈(ふ)むには上手下手も無く、出来ざる人も無し」とあるのは、「人も我も同一に愛し給(たま)う」天から命じられた「性」に率(したが)うことが「道」であるからである。天は皆に平等に接するのであるから、ここから導かれる「道」も同様に、誰にでも同じものなのである。

 

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