平田 圭吾のページ

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『日本近代史』 (ちくま新書) を読んで

新書にしてはかなり分厚く、普通のほぼ倍の450pの力作。
著者の方は、長年日本近代史を研究されてきた方で、この本を書き上げた時には75才。東大の名誉教授という肩書なのだが、この本を読むと、尋常ならざる研究を積んでこられたこと、またその名誉に相応しい方なのだとよく分かる。
言うまでもないが良著であり、450pという大著であるにもかかわらず、よくこの紙幅にこれだけのことを書き収めていただけたものだと思える本。

「詳しい」歴史観により書かれた本

それで、まずは恒例の歴史観についてなのだが、これはまさに、「長年研究を積まれた方」にしか持ち得ないものだと思った。つまり、とても「詳しい」のだ。

 

2017年の衆議院総選挙に例えると

その「詳しい」というのがどういうことか、なるべく分かりやすく説明すると、例えば、2017年の衆議院選は、自民党の大勝だった。これを遠くから見れば、「世界経済が堅調だったことと、アベノミクスで景気が回復したこと」により、自民党が大勝だったということになるだろう。百年後の日本人でもそう思うだろうし、海外の人も大多数はそう思っているだろうし、日本の中でもそういったことに疎い人はそのような理解に違いない。
なぜなら、このように理解するのが、ごく自然で、かつ非常に分かりやすいからだ。

しかし、実態は少し違う。投票日の台風という与党側を利する悪天候に加えて、与党自民党を利する小選挙区制と野党勢力の分裂が、今回の自民の大勝をもたらしたのだ。だから、景気の好調だけが自民党大勝の原因だというのは誤解である。

このように言えば、私の言いたい歴史観も理解していただけるのではないか。つまり、尊王攘夷派が決起したのが明治維新ではなく、原敬が初の平民宰相になったことが大正デモクラシーではなく、軍部がまるごと暴走したのが第2次大戦の勃発なのではない。実際はもっと複雑な因果関係があるのだ。

 

一般的解釈とは違うかも

この本の著述に沿って、この歴史観による日本の近代史を簡単に述べていく。もちろん、因果関係が詳しいというのがこの本の特色であるからには、要約されたここの記述を読んで「それは(一般的解釈とは)違う」と思われるような点は、きっと多いと思う。しかし、これは私の意見ではなく、この著者の尋常ならざる研究の結果導き出されたものであるからには、是非ともこの著書を読んでその「違う」というわだかまりを消していただきたい。

また、この本が書かれたのは、東日本大震災の直後ほどである。はっきりとは書かれていないが、民主党政権への期待と、その期待を裏切られた失望がいたる所に見える。さらに、熱烈な自民党支持者の方は、この本を読むと、自民党を批判されているようで嫌な思いをするかもしれないことも付け加えておきたい。

 

 

明治維新

第一章 改革 1857-1863 (公武合体)(~~)は一般的な歴史解釈
第二章 革命 1863-1871 (尊王倒幕)

この期間について一言で言えば、「西郷隆盛が主役」である。薩摩藩西郷隆盛の「合従連衡策」が明治維新を実質的に動かしていたとするのだ。西郷隆盛の好きな人は、非常に面白く読めると思う。
また、明治維新と言うと、「尊皇攘夷の志士たちが明治維新を達成した」と要約される。しかし、「尊皇」は分かるとして、「攘夷」とは、「外国を払いのける」という意味であり、明治維新の立役者となった薩摩藩がイギリスと通商していたことと矛盾する。これはおかしいとだいぶ前から疑問に思っていた。だが、この本には、その答えがあった。

つまり、明治維新は「尊皇攘夷VS佐幕開国」という二極の戦いでなく、尊皇・攘夷・佐幕・開国というそれぞれの思想が複雑に入り乱れた、複数勢力での戦いだったのだ。だから、「尊皇攘夷の志士」が必ずしも「維新の志士」ではないし、幕府内にも「体制内改革派」として、少なからぬ「維新の志士」がいたわけである。
それで、この複数勢力を結集したのが西郷隆盛であり、その具体的な策が「合従(藩の代表たる大名が連携)連衡(各藩下級武士同志での連携)」であったのである。この本の説明ならば、今まで疑問に思っていたことも非常に腑に落ちると納得できた。

 

明治時代

第三章 建設 1871-1880 (殖産興業)

この時代は、新しい支配体制をまさに建設する時期であったが、日本では「富国強兵」の殖産興業が推し進められたというのが一般的な理解である。基本的には、明治維新の功労者が日本の行く末を建設していったということで間違いないが、それだけの理解だと、政権を追われた西郷隆盛板垣退助などの主要人物に関して説明ができない。
そこでこの本では、「富国強兵」「公議輿論」という有名な語句によって、次の四つの派閥の動きとして、この時代を理解している。つまり、富国派・薩摩藩大久保利通、強兵派・西郷隆盛、公議(憲法)派・長州藩木戸孝允輿論(議会)派・土佐藩板垣退助という四派閥である。
経緯として、大久保と木戸は、岩倉使節団として海外を歴訪するのだが、その間に、西郷と板垣が征韓論を主張するようになり、結局、西郷は西南戦争を起こし、板垣は下野して自由民権運動を繰り広げていくことになる。
明治維新では、君子としか言いようのない活躍をした西郷隆盛であったが、西南戦争は実に愚の骨頂であった。西南戦争のために発行された不換紙幣(国債のようなもの)がその後の日本を長きに渡って苦しめるのだ。また、どうして西郷がそんな愚かになったかと言えば、一重に、自分に付き随う者だけと田舎にこもってしまったからだろうと思う。

当時は、通信の便もなかったのに、田舎にこもれば、情報は当然偏ったものしか入ってこない。しかも、西郷を慕う人は、一本義の通った軍人ばかりで、殖産興業と謳いながら実質商社と成り下がり、軍事をほっぽりだしてしまった明治政府には少なからぬ不満があったのだ。中央との連絡を断ち、このような不満分子の愚痴ばかり聞いていれば、いかに君子と言えど、その目も心も曇ってしまう。

この点は、実に明治政府の手落ちとして、残念に思うところである。後のファシズム台頭のところでも重要になってくるが、だいたい、不満分子のはけ口は敢えて残さなければ、不満勢力が結集して良からぬことをするのは自明の理なのだ。人手不足だったのかもしれないが、この点以外も含めて、この時代の明治政府は実に稚拙と思った。

 

第四章 運用 1880-1893 (明治立憲制)

この時代では明治憲法をどのようなものにするかが焦点となるが、立憲君主制井上毅ら藩閥元老勢力、拒否権型議員制度の板垣退助自由党勢力、議院内閣制の大隈重信福沢諭吉らの知識人勢力という、三つ巴で憲法が制定されていくことになる。
簡単に言えば、明治十四年の政変で大隈らが失脚し、立憲君主拒否権型議会の憲法が発布されることとなる。ここで古典として紹介されているのが、「明治憲法成立史」稲田正次著であるが、いつか読んでみたい。
それで、この後に、議会政治が行われるわけであるが、拒否権型の議会であるから、藩閥元老勢力ら行政・官僚の「超然主義」的立案を、議会がひたすら否定するという、ねじれ国会どころではない、何も決まらない政治が数年続いてしまう。あまりにも決まらないということで、これは天皇仲裁の元、和協の詔勅で議会の地位が上昇させ、一時的に問題が解決する。しかし、この打開案が産んだ結果は、現在の日本にも続く、「官民一体」「官僚と政治の癒着」であった。

 

大正

第五章 再編 1894-1924 (大正デモクラシー

この時代にも、基本的には、藩閥元老勢力(伊藤博文山縣有朋など)・自由党(政友会)勢力(星亨・原敬高橋是清など支持基盤は地方紳士)・進歩党(憲政会)勢力(大隈重信福沢諭吉など支持基盤は商工業者)という三つ巴の政局争いが、民衆の生活ともつながりながら、歴史を織り成していく。
この本には詳しく説明がなかったのだが、大日本帝国憲法において内閣の任命権は、完全に「密室」にあったようだ。つまり、天皇を中心とした藩閥元老勢力がその任命権を持っていたのである。しかし、世論や当時の勢力図を無視するわけにもいかず、藩閥元老勢力・官僚と、自由党勢力が結託し、内閣を順繰りで回すなど、実に不安定な政権運営をしている。今の日本で内閣が長続きしないのは、議会開設も間もないこのころからのことだったのかと、非常に納得できた。
また、大正デモクラシーの代名詞と認識されている初の平民宰相の原敬は、デモを警察力で鎮圧したり、唐突な解散総選挙を行うことで、普通選挙制の実施を引き伸ばしたり、二大政党制にならないように策略を巡らしたりしている。政局運営の手法が、まるで現在の自民党としか言いようがない。しかし、ただ一点、重要な所が違っていて、この当時、政友会は平和主義であった。アメリカ追従という意味では自民党と似ているが、対外政策は国際秩序重視で、帝国主義政策からの脱却を旨としていたのだ。しかし、敵対党勢力である憲政会が、有名な幣原外交で方針転換をすることにより、方針を変えてしまう。

 

昭和

第六章 危機 1924-1937 (昭和ファシズム

このころになると、二大政党制がやっと実現しだして、憲政会が政権を獲得し、普通選挙が実施された。しかし、幣原外交での方針転換を機に、政友会(積極経済・帝国主義的対外政策・強権的)、憲政会(消極経済・世界秩序重視の穏健対外政策・リベラル)という、どこかで見たような二大政党の構図となる。
また、この辺りから、政友会の方針転換で勢いづいた北一輝などが、ファッショ思想を広めていく。悪名高い治安維持法は、25年に施行されるが、ファッショを制限するものでなく、ロシア革命に刺激された社会主義勢力の実質活動を制限することであった。
さらに、藩閥元老勢力は、実質的に軍部と同義になっていくのだが、軍部も内部で、「統制派(穏健)」と「皇道派(急進)」に分裂していく。
憲政会内部、政友会内部にも、それぞれ二大派閥ができるなど、主要勢力は少なくとも10の小勢力へと「小きざみ」になる。
青年将校五・一五事件二・二六事件などの危機を乗り越えるために、挙国一致内閣なども設置されるが、危機が過ぎると、「小きざみ」な勢力が互いに反目するようになる。
こうして満州事変が起こり、崩壊の時代、大政翼賛会の時代に突入するわけだが、この崩壊の時代を描かずして、この本は獲麟を迎える。

 

個人的な感想や考察

私が思うに、崩壊の時代に突入してしまったのは、お互いがお互いを排斥し合い、お互いの利害を越えて調整できるような君子がいなかったことが原因であると思う。大局を見て、自身の利害や拘りに捕らわれず、当時の日本を調整できる君子が、それぞれの「小きざみ」な勢力で代表となり力を持っていれば、もう少しマシな歴史があったのかもしれない。また、社会主義運動を制限したのも問題であったと思う。そもそも、どの時代にも、過激な行動や過激思想でしか自分の不満を発散できない人は一定数出てくるのだ。だから、社会主義勢力を活かしていれば、そちらに過激な人が流れ、少なくとも、過激な人がファッショ思想に一極集中することもなかったであろう。

最近は、右翼VS左翼、リベラルVS改憲、というような、お互いがお互いを排斥する動きがいたるところにある。私から見ると、どちらも、「少しも相手に譲らない」という気構えにしか見えない。左翼が勝利しても、右翼が勝利しても、リベラルが勝利しても、改憲が勝利しても、日本の未来は暗いのではないか。

あと、中国との比較で、このころ、列強に翻弄され続けた中国に比べて、いかに日本が外交的に煩わされなかったかということも、非常に興味深かった。

 

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