平田 圭吾のページ

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『学問のすすめ』現代語訳3 自由とわがまま勝手の違い

初編3 学問をするには分限を知ること肝要なり

 学問をするためには、分限というものを知ることが重要だ。そもそも人は生まれつきに繋がれたり縛られたりするようなことはなく、一人前の男は男、一人前の女は女であって、自由自在の者である。とはいうものの、自分は自由自在であると唱えて分限というものを知らないのなら、わがまま勝手に陥ることが多い。

 つまり、ここに言う分限とは、天の道理に基づき人の自然な情に従って、他人への妨げをせずに自分の身の自由を達成することだ。自由とわがままとの境目は、他人への妨げをするかどうかにある。 

 例えば、自分のお金を使ってやることならば、仮に酒と女に耽って自由放蕩な遊びを尽くしたとしても、それは自由自在であるように見える。けれども、これは決してそうではない。一人の人が放蕩をすると、それはいろいろな人の悪い見本となって、遂には世間の多くの人を悪い習慣に導いてしまい、その人たちを本当の教えから遠ざけてしまう。だから、その使ったお金はその人のものであるのだけど、この罪は許すわけにはいかない。

 また、自由独立のことは、人の一身にあるばかりではなく、一国の上にもあることである。われらが日本は、アジアの東にある一島国で、古来外国との交わりを結ばないで、自国内の産物のみで不足があると感じたようなことはなかったが、嘉永の間にアメリカ人が渡来するようになり、外国貿易が始まって今日のようなことになっている。

 しかし、鎖国をやめて港を開いてからでもいろいろと議論は多くて、鎖国攘夷などといまだに言っているやからもいるのだが、この人たちは、その見る所はとても狭くて、ことわざで言うならば「井の中の蛙」でしかなく、その議論は取るにも足らないものばかりである。

 日本にしても西洋諸国にしても同じ天地の間にあって、同じ日輪(太陽)に照らされ、同じ月を眺めて、海を共有し、空気もまた共有し、心も同じ人間なのだ。そうであるならば、ここで余っているものはあちらに渡し、あちらで余っているものはこちらに取り、互いに教えて互いに学び、一方的に恥じ入ってしまうということもなく特別に誇るということもなく、お互いの便利を達することを目的としてお互いの幸せを願うべきである。

  このように、天の理(ことわり)と人の道とに従ってお互いに交わりを結び、理(ことわり)を知るためにはアフリカの黒人奴隷にでも恐れ入って、人の道を守るためならイギリスやアメリカの軍艦をも恐れず、国の恥辱であるようなことがあるならば、日本国中の人民が一人も残らず命を捨ててでも国の威光を落とさないようにすることこそ、一国の独立と言うべきものである。

 それなのに、シナ人(中国人)などのように、自分の国以外は国ではないと言わんばかりに、外国の人を見れば「夷狄だ、夷狄だ」(夷狄:野蛮で未発達な侵略者)などと口にして、四足で歩いている畜生のようにこれを馬鹿にしてこれを嫌い、自国の力も知ろうとせず、みだりに外国人を追い払おうとし、かえってその夷狄に苦しめられるといったような始末は、実に国の分限というものを知らず、一人の身で言うならば、本当の自由に達しないで、わがまま勝手に陥る者であると言えよう。

 この明治維新で国が一新して王政となって以来、われらが日本の政治は大きく改まり、外は万国の公法に従って外国と交わり、内では人民に自由独立の趣旨を示し、既に平民でも名字を名乗って馬に乗ることも許されたというようなことは、日本始まって以来の一大美事であって、士農工商、四民の位という身分差別が無くなるための基礎がここに定まったと言えよう。

 ならば、今から後は日本国中の人民に、生まれつきに定められた位(身分)というものはなくなり、ただその人の才能と人格と何をしているのかということによって位(身分)が定まるのである。

 例えば、政府の役人をいい加減に扱わなということは当然のことであるけれども、これはその役人が生まれながらにして貴いというわけではなくて、その人が才能や努力によってその役所の仕事を行い、国民のために貴い国法というものを取り扱っているから、この人をいい加減には扱わないのである。だから、人が貴いということはでない、国法こそが貴いのだ。

 旧幕府の時代、東海道で御茶壺が通行していたことは皆の良く知るところである。この他にも、「御用」の鷹は人よりも貴く、「御用」の馬には往来の旅人も道を避けるなど、なんでもかんでも「御用」という文字が付くと恐ろしく貴いもののように見えて、世の中の人も数千百年の昔からこういったことを嫌いながらも、このしきたりに慣れてしまって、上下でお互いにこの見苦しい風習を成していた。

 しかし、これらのこと全部は、つまるところ、法が貴かったというわけでもなくて、その品物が貴かったというわけでもなくて、ただいたずらに幕府の威光を示して人を恐れ入らせて、自由を邪魔しようとする卑怯なやり方であって、実のない虚しい威光と言えるだろう。

 今日では、日本国内のどこにもこういった浅ましい制度や風習といったものは、もはやないはずである。ならば、人々は安心して、もしも政府に対して不平を持つようなことがあれば、これを包み隠して陰で政府を怨むようなことはせずに、そのことについて詳しく調べて筋を通した上で、静かにこれを訴えて遠慮なく議論するべきなのだ。天の理と人情に違わないことであるならば、一命を投げ打ってでも争うべきである。これがすなわち一国人民たる者の分限というものである。

 

【解説】自由とわがまま勝手の違い

 だいぶ長いので、この部分の主題である「自由とわがままの違い」について見失ってしまう。だが、これは冒頭にもある通り、「自由とわがままの違い」は「他人への妨害をするかどうか」にある。この一点がここでは重要な話なのであり、その微に入り細に入る例えが、以下、「自由放蕩の浪費家」「いまだに攘夷論にこだわる人」「外国を無条件に野蛮とする清代の中国」「身分制度と幕府御用達(御用)という威光」ということになる。

 要は、自分の行動が自分以外の人にどのような影響を及ぼすか、あるいはどんな不利益を及ぼすかを一切考えずに、「自分は自由だ、だからこうしている」とする人こそがわがままであり、法律用語に言うところの「濫用」をする人ということになる。ただし、福沢諭吉がここでも微に入り細に入り説明しているように、すっぱりと簡単にその境界線、つまり本文に言うところの「分限(分けられた限り)」を判定できるわけではない。だからこそ、その判断をするためにも学問をすすめる。

 さて、ここで例えに出ている「外国を無条件に野蛮とする清代の中国」であるが、当時の中国について興味を持った方も多いだろう。大変な良著があるので紹介したい。李鴻章――東アジアの近代 (岩波新書)袁世凱――現代中国の出発 (岩波新書)である。李鴻章は、頬を銃弾で打ち抜かれながらも日清戦争の調停を行った人物であり、袁世凱は妾を十人以上抱えた上に、百日皇帝となった人物である。岡本隆司氏の著作は、大変読みやすく、読み物として面白くなるような工夫もされているので大変おすすめだ。また、経済に関する基礎知識が必要で難度の高い本ではあるが、近代中国史 (ちくま新書)もおすすめする。ちなみに、袁世凱の宿敵が「孫文」で、のちに続くのが「蒋介石」ということになる。
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