翻訳本 魏武帝註孫子 少しずつ公開1 『はじめに』
はじめに
あまりにも有名ですから、説明の必要はないかもしれませんが、『孫子』は、兵法書です。兵法書とは、戦争のやり方を書いた本のことです。例えば、『孫子』の英訳本の題名は『The art of war』であり、直訳すれば、『戦争の技術』ということになります。
このように、『孫子』は戦争のことについて書かれた本なのですから、平和な現代の日本では必要ないはずです。なのに、どうしてこれほど有名なのでしょうか。
『孫子』が有名な理由の一つには、時代劇や時代小説で、よく『孫子』の一節が引用されることがあるでしょう。例えば、武田信玄の「風林火山」は『孫子』の一節です。武田信玄は、この「風林火山」を旗印にまでしていたわけですから、相当に『孫子』を愛読していたのでしょう。
また、この『魏武帝注孫子』は、『三国志』で有名な曹操が『孫子』に注釈を付けたものです。諸説ありますが、もともとあった『孫子十三篇』を曹操が愛読し、これに注釈、つまり、解説を付け加えたものがこの『魏武帝注孫子』とされております。
このように数々の英雄たちに愛されてきた『孫子』ですが、現在、書店のビジネスコーナーには、たくさんの孫子に関する書物が置かれています。これは、平和な現代の日本でも、兵法書『孫子』の有用性を多くの人が認めていることの何よりの証と言えます。
しかし、私はこれらの本について、あまり感心しておりません。というのも、当時の戦争とは、自分と自分の愛する者の命、またそれぞれの尊厳をかけて行われた、文字通り命がけのものであったからです。
こう言うと、中には、「いやいや、だからこそ、熾烈な争いが起こるビジネスシーンで孫子が必要なのだ」と、興冷め発言をする人もいるでしょう。
しかし、ビジネスで負けても、事実として、現代ではまず死にません。尊厳も傷つけられません。贅沢する金と、自意識過剰な自尊心が傷つけられるだけです。だから、私は『孫子』をやたらと実生活に役立てようとする人には、『孫子』を読んでほしくないと思っております。
このことについては、この『魏武帝注孫子』の著者である曹操も同じ考えであったようです。というのも、曹操は、まず序で「聖人の兵を用うるは、戢(おさ)め而して時に動き、已(や)むを得ず而して之を用う」と、戦争は「他にどうしようもないからやることである」としているからです。
また、本編でも「常法の外」「常形(じょうけい)無し、詭詐(きさ)以て道と為(な)す」(始計第一)、「軍容国に入らず、国容軍に入らず、礼以て兵を治むべからず」(謀攻第三)と注釈を入れています。
これらの言葉を吟味してみれば、「戦争とは常でない特別なこと」と、曹操が戦争を特別視していたことは容易に想像できます。つまり、曹操は『孫子』について、「戦争という特別な場合だから」と、常にそれを念頭に置いて考えているわけです。
それなのに、無理に『孫子』を普段の生活に役立てようとして、「兵とは詭(き)道なり」(騙し合いの道である)という言葉を鵜呑みにした人がいたとします。この人が、普段から嘘ばかり言うようになれば、いつか周りの人からの信用を失って大変なことになるでしょう。また、嘘をつくとは詐欺をするということです。詐欺は犯罪ですから、人生を全て棒に降る可能性すら出てきます。
このようなわけですから、曹操も私も、「戦争とは特別な場合であり、『孫子』は特別な場合で役に立つ書物だ」と言うのです。
すると、「じゃあ、孫子を読む意味はないの?」という話になりますが、それはそうではありません。読む意味はあります。
その一つ目が、「身を守るため」です。世の中には、ビジネスや時には人間関係さえをも戦場と勘違いして、どんな手でも使ってくる人がいます。『孫子』を読んで、そういった人の手の内を知っていれば、こちらの身を守ることができます。
二つ目は、数々の英雄たちが読んできたこの『孫子』を読むことで、この「英雄たちのことを知るため」です。序の解説に詳しく書きましたが、孫子を読むことは、もちろん曹操を含めて、この数々の英雄たちと友になるための手がかりとなるでしょう。
最後三つ目は、「孫子の中で、戦争だけで役立つのではない部分を普段の生活に役立てるため」です。これは難しいことですが、学問を重ねて、多くの事を深く理解することができれば、「孫子の中で、普段は使ってはならない部分」も分かってくるでしょう。
長々と自説を述べさせていただきましたが、これは『孫子』を読む上で必ず考え、念頭に置かなければならないことです。ここまでを読んで、「こんなトロい考え方のやつが翻訳しているのか」と思った方は読んでいただかなくて結構です。この私の考え方に賛同していただける方だけに読んでほしいと思っております。また、そのような考えの方に読んでいいただければ、この翻訳も少しはお役に立つと思っております。
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