平田 圭吾のページ

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『近代中国史』 (ちくま新書)を読んで

読み応えのあるかなりいい本だった。中国近代経済研究の集大成と言えるものではないか。
ただ、その分難しい。中国史の概略のみならず、経済・金融の知識がないと特に後半はあまり意味が分からないかもしれない。とはいえ、前半までは、ほとんどの人が興味深く読めると思う。

「士・庶」「官・民」という格差

内容としては、「士・庶」「官・民」という格差を基軸にしながら、主に漢代後からの中国経済や社会を解明するというものであった。タイトルの通り近代、つまり明清時代に関する記述が多めとなっている。

この本の基軸となる「士・庶」「官・民」の「格差」であるが、本書を読む限り、もはやそれは「格差」のレベルでなく、社会的分断であり隔絶と言っても過言ではないほどのものだ。また、このような想像を絶する「格差」が歴史的にあったからこそ、われわれ日本人が中国を理解できない部分が多いのである。

 

「格差」がもたらす弊害

その「格差」がもたらす弊害がどんなものか簡単に列挙する。
・官が庶民の実態を全く掴んでいない。
・税金は官に近い人に代理で納めさせる。その結果、官の威光を借りた中間搾取や賄賂が横行する。
・帳簿の数字と実態がかけ離れて当たり前くらいになる。言行の不一致、知行の不一致の状態化。
・官憲が及んでいないために自力救済・各自結社による武力が、紛争解決の主となる。当然だけど、法律とか全土統一の常識がない。まさに郷に入りては郷に従え。
・それぞれの地域ごとに当たり前のように別の貨幣が流通する。
・庶民は国を信じていないし、そもそも当てにしてない。

などなど、数え上げたらきりがないのだけど、とにかくカオス・無秩序としか言いようがない。

 

中国古典は大事にされてきた特効薬

しかし、敢えて私は言う。だからこそ、中国古典は信ずるに値する良い物なのだと。
そもそも、そこに病気がないのに、薬を開発する人がいるだろうか?もちろんそんな人はいない。
そこに病気があり、その病気が甚大な被害を及ぼしているからこそ、奇特な人が薬を開発するのだし、その薬は皆から大切にされるのだ。

つまり、中国は以上に述べたような無秩序が状態化しており、そこがカオスのどうしようもない所だったからこそ、論語やその他中国古典にあるような「理想」が生まれ、人々に愛され、語り継がれ、研鑽されて来たのだ。
また、最近は、「儒学を国是としてきた中国は事実あんな国ではないか。中国古典は役に立たないのは言うまでもない」と、一見するといかにもそれらしいことを言う人がいるが、これも所詮は凡人以下の人の考えでしかない。
実際には上にも述べたように、そのような国だからこそ、その「薬」が大事にされてきたのである。もっとも、事実として、この「薬」が服用されることはなかったが、それらが良く効く「薬」だと、分かっていたからこそ大事にされてきたのだ。

 

どうしてそうなった

話は逸れてしまったが、中国がこのようなカオスになってしまったのはなぜだろうか。

私が思うには、ひとえに中国が広大だったことがある。

また、秦という法治国家の大失敗も、関係しているのではないか。

あともうひとつ、中国語、つまり漢文が難しすぎることもある。「士・庶」の区別は、字が読める読めない、あるいは科挙に受かったか受かってないかであったそうだが、中国人の大多数は読み書きができない文盲な人がほとんどだったと思われる。だから、法を布告しても行き渡らず、うまくいくはずがない。

他の国の歴史と比較して、特に違うのはこの三点であると思う。

 

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『「心の不安」が消える本~幸せになれる人、わざわざ不幸になる人~』 (大和書房) を読んで

良い本であった。

一見すると、著者の意見が書かれているようであるが、中身を読み進めていくと、実は、「ロロ・メイ」という人の不安理論を説明する本であった。最後の「不安に負けない心の持ち方」の部分は、著者の意見と思う。ちなみに著者は、テレホン人生相談で有名な加藤諦三氏である。

文章自体は、短文形式、あるいは散文形式で、前後の繋がりがあまり重視されていない感じがした。あとがきにも書かれているけど、この「不安理論」について書いていったつながりのない短めの文章を、編集者の方がそれなりにまとめたものと思う。

 

不安理論とはどんなものか

この不安理論自体は、かなり当てはまる部分があると思う。しかし、それだけで全てを説明するのは無理だなぁと思った。これは、不安理論が優れていないからという理由でなく、人間の心が複雑であるから、ひとつの理論だけでは到底説明できないという意味である。

それで、この不安理論だが、まず前提として、「人は人との繋がり」を求めるということになっている。これが満たされない時に、人は不安を感じるようになる。また、この人との繋がりが欠落していると感じる根源は、子供時代の人間関係にあり、簡単に解消できることではない。

 

不安とは何か

次に不安というのが具体的にどのようなものかと言えば、例えば、毎日10万円ずつお金を使って生活する人がいて、この人が「明日は8万円しかお金を使えなかったらどうしよう」となる心理状態が不安ということになる。だから、必要以上のものがあるのに、それ以上を求める「貪欲」の契機になるが、この「不安という心理状態」ということになる。

 

不安は敵意になる

また、不安のある人は、これが敵意になって現れると言う。つまり、不安をかき消すために、誰かをいじめたり攻撃したりして、優越性を感じ、これで不安を一時的に忘れるのである。あるいは、攻撃することそれ自体が、その人にとってのコミニュケーションであり、そうすることで、人との繋がりを感じるともある。いろんな意味で依存するのだ。

アドラーの「劣等コンプレックス」は不安の一部ということらしい。ただし、敵意は必ず外に出て、誰かを攻撃するという形を取るのでなく、内向的に自分に向かう場合もあるということで、こうなるとうつ病になったり、本当にやるべきことから目を背けたり、体に不調が出たりするとのことである。

 

不安を避けることは幸せにつながらない

これらのことを総合して考えてくると、「はじめに」にも書かれた総合的結論、つまり、

「人は幸せになりたいのでなく安心したい、
人は不幸を恐れるのでなく不安を恐れる。

だから、幸せになりたいと思いながらも不安を見て見ぬをして安心にしがみつき、
こうして不幸になる」

ということになる。

これは確かにこの通りである。ここにもあるように、自分の不安を直視することは、人にとってかなり辛いことであり、これを見るくらいなら死んだほうがマシという人は、私の経験からも多くいる。だから、この不安理論で直接指摘して誰かを助けてあげようとすると、かなり高い確率でこちらに敵意が向かうことになる。

 

自分の不安は受け入れ難い

こういった意味で、著者の加藤氏が不安理論を実感したのも納得できるなぁと思った。というのも、テレホン人生相談に電話する人は、もうそれ以外に道はない、位に思い詰めている人で、思い詰めている人は、人の意見を聞くしかないと思っているから、素直になりやすいのだ。この心の準備ができていない人に不安理論で助けてあげようとすれば、さっきも述べたように烈火のごとく怒るだけである。

だから、この本によって不安が消えるかどうかはかなり微妙で、むしろ、はじめの方だけ読んでこの本に対して敵意を感じてしまう人はかなり多いと思う。そういった意味で、最後の「不安に負けない心の持ち方」を最初に読んでから、その後で、不安理論について自分にあてはまることを素直に受け入れるという読み方が良いのかもしれない。

 

個人的な考え

この不安理論については、かなり興味深かったので、もう少し別の本も読んでみようと思う。というのも、私の得意な中国古典だと、実効的な側面からの説得や解析が重んじられていて、人の心理状態の側面からの考察は少ないからである。あと、この不安理論は、『大学』で言えば、「止まるを知ってのち定まる有り、定まってのちよく静かに、静かにしてのち安く、安くしてのちよく慮り、慮りてのちよく得る」の止まる所を知ることと同じということになる。

また、現代の競争社会は不安を掻き立てる社会だとも書かれている。そのような側面から見ても大変に興味深い内容だった。

 

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『現代オカルトの根源:霊性進化論の光と闇 』(ちくま新書)を読んで

どんな本だったかと言うと、オウム真理教について興味を持った著者が、その源流をたどっていった結果、「霊性進化論」にたどり着いたというものだった。だから、カルト宗教の源流や、トレンドを知りたいという方、あるいは、カルト宗教を見分けたいと思っている方にはかなりの良著と思う。

霊性進化論とは何か?

そこでまず、霊性進化論とは何か?であるが、これは、人が物質的側面と霊的側面をもったものであるという仮定から始まる。何故にこのようなことから始まるかといえば、人は物質的にはサルやプランクトンから進化したものであり、「何ら特別なものではない」からである。これを解決するために持ち出すのが、人間の「霊的側面」であり、この「特別な」霊的側面を進化させようというのが「霊性進化論」である。

 

カルト宗教の主張は面白い(笑)

しかし、この「特別な」というのが、厄介者で、ここには、金星人が移住してきただの、レプタリアン(爬虫類人)が移住してきただの、ルシフェルが物質界の王だの、エル・カンターレが霊性進化の真の指導者だの、霊界は七つの段階があるだの、とにかく○○なことばかりが肉付けされてしまう。

確かにこういった話は私も信じかねない。というのも、これらの話が非常に二重の意味で「面白い(笑)」からである。

これらの「面白い(笑)話」に共通することとしては、全てが「どっかで聞いたような話」であることがある。つまり、これらの話は、昔ばなしや神話、経典に収録されているような話、または一度は流行った都市伝説などが元ネタとなっているのだ。この特徴は、マニ教の特徴に非常に似ているように思う。また、もう一つの特徴は、言うまでもないかもしれないが、全てが見えないことや未来のこと、つまり「オカルト」の分野が話の対象となっていることである。

 

霊性進化論はなぜ受け容れられるのか

次になぜ、この霊性進化論が出てきて、しかも多くの人に受け入れらたかと言うと、背景として、宗教的考え方と、科学的考え方の間にある葛藤があったと著者は主張する。

というのも、上にも明らかなように、科学の発展、また「進化論」によって、キリスト教が築いてきた世界観が一気に壊れてしまったからだ。

地球は宇宙の中心でないし、人間は神に作られた特別な存在でなく、サルの亜種だった。このような事実は、今までそうでないと信じてきた人々にとって、到底受け入れられるものではないであろう。

だから、この間隙を折衷する立ち位置にあるのが、「霊性進化論」なのだ。

 

霊性進化論の特徴

また、「霊性進化論」の特徴として、善(霊性進化)と悪(霊性退化)の二項対立論がある。簡単にいえば、霊的に進化した霊的人間と、この霊的進化を邪魔する人間がいるという、極めて単純な善悪・優劣の二項対立的考え方だ。

ここまでこれば、このような考えが、ナチスヒトラーユダヤ迫害・ゲルマン最高思想、または、麻原オウムのシャンバラ(理想郷)とポアという考え方に簡単に繋がることは言うまでもなかろう。この関連で、ナチスヒトラーが受け入れられたのは、こういった思想風土が既にドイツにはあった、と書かれていたがそれはその通りだろうと思った。

とにかく、この宗教的危険思想と、霊性進化論の関連性をこの著者は訴えているのである。

ただ、ひとつ課題としては、この著者の方が、キリスト教を本来の研究分野にしていることもあって、世界の全てが「キリスト教歴史観」から成り立っているかのように論じていしまっていることがある。この辺は課題であると言えよう。

 

本の構成

第一章 神智学の展開
ブラヴァツキー、シークレット・ドクトリン
チャールズ・リードビーダー
クリシュナムルティ⇒後に決別)
ルドルフ・シュタイナー人智学に分派)

第二章 米英のポップオカルティズム
エドガー・ケイシー(催眠術を使った奇跡療法)
ジョージ・アダムスキー(UFO)
ホゼ・アグエイアス(マヤ暦)
デーヴィッド・アイク(レプタリアン)
ニューエイジ思想

第三章 日本の新宗教
オウム真理教
GLA幸福の科学

引用されがちなオカルト経典
シオン賢者の議定書
ルシフェル
ヨハネの黙示録
チベット密教

ということになる。

話自体は面白い(笑)ので、ファンタジー小説などのネタとして、上に出した人の著作を読めば、かなり役に立つのではないかと思う。実際に、ここのどっかから話のネタを持ってきていると思われる作品もあるように思う。

 

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