平田 圭吾のページ

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西郷隆盛『遺訓 現代語訳』の紹介

定価は100円と大変お求めやすくなっております。

KindleもしくはGoogle Play Booksを読む環境のある方は、写真下のリンクよりご購入いただき、是非ともご一読ください。

 

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遺訓 現代語訳 Kindle版

遺訓 現代語訳 Google Play版

 

『遺訓 現代語訳』の概要

遺訓43章(本編41章・追加2章)、問答14章(問4章・答7章・補遺3章)、付録として途中で紹介される伯夷頌を収録しました。
平易な現代語訳、内容理解を主眼とした解説が原文と併記されています。
解説は、卑近な例えを用いてわかりやすくすること、論語などを引用しながら言葉の意味を詳しくすることを心がけました。
そのため、西暦何年に何があって、西郷はこのとき何をしていた、といったような歴史的記述はありません。
あくまでも、書かれていることそのものの内容理解が主眼となっております。

 

目次

一~七 為政者の心構え
遺訓の由来
一、功には賞で徳に官
二、一格の国体定制
三、政治の大体
四、万民の上に位する者
五、子孫のために美田を買わず
六、君子と小人の用いどころ
七、詐謀は行き詰まるべし

八~一九 文明開化・万国対峙に臨んで
八、開明に進んで彼の制に従うべからず
九、政事の大本
一〇、人智の開発
一一、文明とはなんぞや その一
一二、文明とはなんぞや その二
一三、国家財政 その一
一四、国家財政 その二
一五、国家財政 その三
一六、節義廉恥なければ
一七、正道と国家 その一
一八、正道と国家 その二

一九~二七 敬天愛人と克己
一九、己を足れりとすれば
二〇、その人に成るの心がけ
二一、敬天愛人を目的とし
二二、己に克つ その一
二三、己に克つ その二
二四、天を敬する
二五、天を相手にせよ
二六、己を愛するは
二七、己の過ちを知ったら

二八~三三 道を行う
二八、道を行う者 その一
二九、道を行う者 その二
三〇、始末に困る人
三一、毀誉を前にして
三二、独りを慎むの学
三三、道を蹈まざる人は

三四~四一 平日よりの心構え
三四、平日作略は行わぬもの
三五、陰に事を謀れば
三六、聖賢を目指さぬは卑怯者
三七、真誠なれば後世も知る
三八、僥倖を当てにするな
三九、才に任すは危うし
四〇、狩りを終えて
四一、君子の体あるも処分なければ

追加
一、いざという時対応するには
二、その道を極めよ

問答
問答の由来
問一、猶予狐疑はなぜ起こるか
答一、猶予狐疑は義の足らざるゆえ
問二、至誠と仁智勇はどのように養うのか
答二、至誠は独りを慎むことより
答三、知を養うところ
答四、勇を養うところ
問三、時勢を知るにはどうすればよいか
答五、理と勢
答六、機会は二つあり
問四、胆力はどのように養うのか
答七、動揺しないためには

補遺
一、誠の薄ければ
二、剛胆になりたいのならば
三、英雄とは

付録 伯夷頌(作者・韓愈)

 

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『経済学の哲学 - 19世紀経済思想とラスキン』(中公新書)を読んで

全体的な本の構成

全体的な本の構成としては、「エコノミー」を、「ポリティカル・エコノミー」及び「エコロジー」という二つの概念に分けた上で、この概念の変化を歴史哲学的に紹介していくものとなっている。また、これだけでなく、さらにこれをジョン・ラスキンという思想家の思想でも追っている。

上の紹介文自体も、いまいち意味が分からないように、ジョン・ランスキン、及びエコノミーの分解という二つの基軸があることにより、大変に主題が分かりにくいものとなっている。
また、歴史哲学的な要素が大きいため、いろいろな横文字の思想家が次から次へと出てきて、私にはとても読みづらかった。小説だと、確か、名前の与えられる登場人物は一万字に一人まで、としないと読者が混乱してしまうということだったと思うけど、この観点からすると駄作ということになる。もう少し登場させる思想家を少なくしているか、章の構成をもう少し工夫すると良かったのではないか。
とはいえ、忘れられた思想家であるジョン・ラスキンを紹介するという上では、必要最低限なものとも思われ、難しいところではある。

 

本の内容を詳しく紹介すると

 

序章 ジョン・ラスキンの生涯

序章には、ジョン・ラスキンの生涯について書かれている。彼は、19世紀のイギリスを生きており、『近代画家論』で芸術論者として名を成した人であった。その後、当時の経済を批判したことにより、今で言う所の炎上を被ることになり、隠遁生活などを余儀なくされてしまう。その問題の書物は、『この最後の者にも』である。

 

一章 ポリティカル・エコノミーの歴史

一章は、「ポリティカル・エコノミーの歴史」ということで、クセノフォンやプラトンアリストテレスが、経済をどのように捉えていたかということが紹介される。
次に、ラスキンの時代の経済を決定したという意味で、アダム・スミスが紹介されるのだが、この辺りから、雲行きが怪しくなってくる。というのも、この著者の方も、あとがきでおっしゃっているのだが、経済学はご専門ではないらしく、私が読んでいても、理論破綻や正確でないと思われる記述がいくつも見受けられるからだ。酷評であるが、論文を貼り合わせたような文章で、非常に読みにくいし、面白くない。


話を戻して、次には、同じ時代を生きた経済学者ということで、ラスキンが、ベンサムやミルやリカードなどの主流経済学とどのように争ったのかが書かれている。

 

二章 ラスキンの経済論

二章は、「ラスキンの経済論」ということで、一章と同じ内容が、さらにラスキンの批判という観点から鮮明化される。ラスキンは、富の意味を変えること、また、労働の意味を変えることで、主流派経済学を批判しようとしたみたいである。


まず、富の意味は、「自由放任の富は富ではない、名誉ある富のみが富である」としている。これは、庶民には非常に受け容れやすい考えである。金持ちの富が、金持ちの自分勝手で使われるのは、非常に腹立たしい。ある意味それは、われわれ庶民から搾り取った富であるからだ。だからこそ、その富は名誉ある富であるべきであり、社会の守護者としてこれを使う時、これこそが真の富に成ると言うのだ。


労働の意味の変化については、当時のイギリスでは、「労働=苦役」というコンセンサスがあったようで、「労働は生そのものである」としてこのコンセンサスを批判する。これは、現代では、「働くことは生きがい」などの言葉によって、実現されたと言える。「労働=苦役」ではないからこそ、ブラック企業が異常なまでに批判の的となることが何よりの証拠である。

 

三章 きれいな空気と水と大地の方へ

こうして、三章「きれいな空気と水と大地の方へ」でエコロジーと、今まで述べてきたポリティカルエコノミーの関連性や、エコロジーという言葉の歴史哲学的な説明がされることとなる。


ラスキンは、芸術論を書くほどの人であり、かなり感性が独特で、簡単に思想として言葉で表現できるような考えを持っていたわけではないようだ。だから、プルーストガンジー・モリスなどの、思想家ではあるが、理論家ではないような人がラスキンを支持しており、こういった意味でも、一般受けは難しいのだろうなぁということがなんとなく分かった。


それで、エコロジーとは何かというと、これも、時代や使う人によってさまざまな意味があるが、簡単に概略を述べると、「人と環境の調和」ということになる。人類至上主義に対抗するとも言える思想全般である。1800年台のイギリスと言えば、工業化が進んで、街がスモッグで覆われ始めたころであろうから、その時代を生きたラスキンが、エコロジーという概念について考えていたことは、自然といえば自然なことであろう。

 

個人的な評価

全体的に言うと、芸術論者でなく、経済思想家としてのジョン・ラスキンについては、日本ではほとんど研究されていないと思われるので、この先駆的な研究の結果としては、有意義な著作であると思う。ちなみに、この本自体の刊行は2011年で、それ以前の2008年に、同じく中央公論社から、『この最後の者にも』の翻訳は出ているようである。

 

ただ、私としては、これは「哲学」の本でなくて、註釈学や歴史学の分野の本であると思う。日本の新書は、誰か西洋の思想家の註釈学の本が圧倒的に多い。だから、一から自分の理論を構成して思想を述べるような本当の哲学の本がもう少し刊行されるようになるといいと思う。こういった意味で、新書には、日本の学会の独創性のなさが感じられる。私にこのように偉そうなことを言う資格はないかも知れないが、日本の哲学関連の学者の方々には、註釈学以外の哲学について、是非とも頑張って頂きたい。

 

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近代政治哲学: 自然・主権・行政 (ちくま新書)を読んで

主権や民主主義という言葉の問い直し

かなりいい本だったと思う。

主権、民主主義というものが何であるのかということを、改めて問い直しており、これらの概念にまだ改良や詳しい定義のやり直しの余地があることが非常に納得できた。また、これこそが哲学だとも納得できた。

ただ、まだお若い方でいらっしゃることもあり、こんなことを何の前提もなしに急に言い出せば、先生方に猛攻撃を受けることになるので、そのことに配慮してか、以下に示す「権威ある」古典を読み解くことにより、この伝えたいことを伝えるという体裁になっている。権威には権威ということだろう。私に言わせてもらえば、もう自分の言いたいことを別の権威を借りずにまとめていただいてもいいと思うが、まあ、誰も納得しないだろうなぁとは思う。(権威的な意味で)

 

本内部での理論の整合性と慎重な姿勢がある

全体的に、この本内部での理論破綻はなく、また、古典を読み解こうという姿勢もかなり慎重であり、この点で、非常に好感が持てるし、実際に突飛な発想をしているというわけではないと思う。

ただ、ひとつ残念なことには、西洋の哲学者が読み込んでいたと思われる書物、つまりは、プラトンアリストテレス、聖書などを読み込んでいることは伝わって来ず、こういった意味で、これらの本を読み込むと、あくまで私がだけど、さらに満足できる本になっていたと思うし、もう少し深みのある議論ができたと思う。

 

本の内容の流れ

本の内容としては、近代政治哲学の主権という概念がどのような時代背景から出てきたのかなどを、1章の近代政治の原点・封建国家で読み解くことから始まる。ここでは、マルク・ブロックの『封建社会』と、ジャン・ボダンの『政府六論』が主に引用されている。

次に、2章近代政治哲学の夜明けで、時代の要請によって、ホッブズの『リヴァイアサン』が中央集権的国家の根拠となったことが述べられ、

3章近代政治哲学の先鋭化で、スピノザが、『神学・政治論』『国家論』によって、ホッブズの理論をさらに突き詰めたことが述べられる。ここらへんまででは、主権や社会契約の根拠となる「自然状態」について、丁寧に説明されていると言える。

こうして、4章の近代政治哲学の建前で、ロックの『政府二論』が、当時の統治体制を維持するための根拠として、広く受け容れられたとしている。だから、ロックの理論は、受け入れられるもの、つまりは、あくまで建前であり、もっともらしいものであるが、哲学的に突き詰めたものではないとしている。これは、マルクスも「資本論」で、「ロックの理論は、前提が宇宙から飛び出してくる」(記憶曖昧だが)と皮肉っていることとも一致して、そうなんだろうなぁと思う。

5章は、近代政治哲学の完成ということで、ルソーの『人間不平等起源論』と『社会契約論』では、どのように自然状態から導かれる主権や一般意志が定義されているのかが説明され、こうして主権の概念が限りなく純化されたとする。また、ルソーは直接民主制論者だというのは俗説だとも主張しておられるが、直接民主制が実際に不可能なことは、誰もが分かることであり、ルソーがこれを分かっていないはずもなく、この方の主張が正しいのだろうと思う。

こうして、6章近代政治哲学への批判となり、ヒュームの『人生論』を根拠に、「自然権が幻想であること」が述べられる。ここでは、今までの流れとは違う根拠の考え方によって、主権への正当性へのアプローチをしようとするヒュームの批判精神が読み取れた。ただ、ヒュームは、アダム・スミスと大の親友だったらしいが、アダム・スミスの『道徳感情論』は読んでいらっしゃらないようで、この点は残念だった。

最後は、7章近代政治哲学と歴史にて、カントの『永遠平和のために』が詳察されることとなる。カントをよく読むと、民主制というものはあり得ないという驚愕のカントの主張が導き出せることが述べられている。理論破綻は起きていないし、『永遠平和のために』は積読されているので、読んでみようと思った。

 

紹介の古典と合わせて、是非とも多くの方に読んでほしい

かなり長くなってしまったけど、上に『~~』で示してきた書物を読む前に、この本で流れを把握しておくと、全体像が捉えやすく、理解も促されるだろうと思う。

近代政治哲学の歴史を俯瞰するという観点からも、この本は読む価値があるので、是非とも多くの方に読んでほしいと思う。ただ、「概念が何であるのか」ということに詳しくないと、途中で理論を見失ってしまうかもしれない。こういった意味では、この本を読みこなすためには、ある程度の哲学の素養が必要だと思う。

ちなみに、偉そうに述べてきたが、私は、この中では、ロックの『市民政府論』(政府二論の片割れ)と『永遠平和のために』及びスピノザの『エチカ』の途中までしか読んだことがないので、ここに紹介されている書物くらいは、今後、是非とも読んでみようと思った。

 

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