平田 圭吾のページ

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『社会契約論: ホッブズ、ヒューム、ルソー、ロールズ』 (ちくま新書)を読んで

タイトルに「入門」を付けていると良かったと思う。
あと、エッセイみたいな本で、基本的には読みやすい本だった。
というのも、普通こういったタイトルの本では、引用をふんだんに使って自分の意見は暗喩的に示すのが普通だからである。つまり、この本は、引用が少なく、著者の日常が織り交ざったエッセイみたいな文章が展開される。

女性らしいエッセイみたいな記述

このように書くと、批判のようにも聞こえるだろうが、これは悪い評価ではない。むしろ、女性らしい視点、女性らしい文章構成が感じられて、そういった意味では興味深いし、こういったタイトルの本はあまり読まない女性でも、わりと入りやすい本と思う。また女性らしいという点では、「ひらがなてんかい」などという小賢しい技法を用いる本よりも、はるかに女性らしさが出ていると言えるだろう。あとかがきによると、これは編集者の助力のもと、意図的にそうしたとのことで評価できる。

裏表紙の著者近影は、「人造人間」というTシャツを着た著者が、満面の笑みを浮かべたものとなっている。このことに疑問や反感を感じる人は、読まないことをオススメしたい。むしろ、それが気になる人は、読めば気に入るかもしれない。ちなみに、私はこの写真に疑問を感じたのだが、私がもう少し寛大でなく忍耐のない人間だったら、途中で読むのをやめていたと思う。
とはいえ、読み終わってみれば、分かりやすく「社会契約論」がまとめられて、全体的な印象は悪くない。
ただ、社会契約論の説明だけで終わってしまっていて、全体を通して、著者の意見が伝わってこなかった。せっかくエッセイみたいな文章構成にしたのだから、全体を通して、自分の意見、もしくは、読者と社会契約論を直接的に結びつけるような記述が、もっと織り交ぜられているとさらに良かったと思う。

 

個人的な見解

内容としては、タイトルの通り、ホッブズ、ヒューム、ルソー、ロールズの「社会契約論」が語られる。以下、個人的に面白そうだなと思った部分を書き留めておく。
ヒュームの社会契約論は、「共感」を基礎として語られるものであるらしい。ただ、これにはいろいろな批判が多いようだ。しかし、彼と親友であったとされるアダム・スミスの「道徳感情論」には、その批判への反論とも思える考察がしっかりと書かれているように思う。つまり、「道徳感情論」はヒュームの言説を補完する立場にあると言っても過言ではないと思う。別の本でも、ヒュームへの批判には、同じことを思ったので、この点における研究はあまりなされていないのではないか。
次に、ルソーの社会契約論が、アウグスティヌス⇒マルブランジュ⇒モンテスキューを経た、キリスト教神学の流れの中にあるという記述があった。ライリーという人の説らしいのだが、興味深く感じた。
最後、ロールズは今回初めて知ったのだが、確かに、古典と言うべき政治思想の理論より、現代の人情に即した理論が展開されていると思った。ベトナム反戦の流れでも、広く読まれたという主著の「正義論」は読んでみたい。

 

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『ユダヤ人に学ぶ危機管理 』(PHP新書)を読んで

良い本だった。

旧約聖書を読んでいるとかなり興味深く読めると思う。

本の内容としては、ユダヤマニア(なぜかユダヤが好きな人)と思われる著者が、超危険な現地に乗り込んでユダヤ人と交流し、その他の歴史的な戦場を巡り、その体験をもとに、そこでの観察や分析などを本にしたものであった。

もと自衛官ということもあり、そういった非常時の対応に興味があったのかもしれないとも思われる。

ユダヤの歴史と旧約聖書

前半の二章、ユダヤ人はなぜ生き延びることができたのか、と、聖書は危機管理の参考書、では、ユダヤの歴史がダイジェスト的に語られていく。

ユダヤの歴史はまさに離散と迫害の歴史であり、バビロン捕囚、ローマによる征服など、普通なら国も民族も無くなっていて全くおかしくない歴史である。それにも関わらず、近代になってユダヤ民族による国家建設が叶ったのは、ユダヤ教というその特異なものにあったとして間違いなかろう。民族とは何か、国家とは何か、ということを考える上でも、ユダヤ民族の研究はかなり有意義なものであると思う。

また、ユダヤ教の基本とされる、トーラーやタルムードの成立時期は、恐らくバビロン捕囚時と、ローマによる征服時とのことである。ここで、これらの書物の編纂は、自然発生的に起こったとのことであり、このことを分かっていて旧約聖書を読むと、あるいは、旧約をある程度読んでからこれを知ると、非常に興味深い。

あくまでも、私の考えであるが、旧約聖書には、意図時に、民族の維持に関する知恵というか、方法が組み込まれているだと思う。国土を奪われた民族が「約束の地」を具体的に明記し、また、その歴史でも「放浪を余儀なくされ」、「選民でありながらも苦難を受け続ける」も、約束の地にたどり着く。確実に分かっているだけの歴史事実と、そうでない先史の部分に非常な共通点があるのだ。

このような意見を述べると、「ならばモーセの時代などは全てフィクションなのか」という話などが出てくるのであるが、これはもっとニュートラルに考えるべき問題であると思う。だから、旧約の先史部分は、半分事実、半分フィクションというのが実際であると思う。

というのも、これは、中国の周にも言えることで、紀元前1000年、つまり3000年前に、あの広大な中国を統一した周という国家があったのかということ、また、書経などに伝わっていることが事実かどうかは、かなり疑問視される部分である。しかし、その後の春秋戦国時代には、事実として、周が盟主として担がれる歴史的事実が幾度も起こっており、この点で、周が実在し、かなりの権威を持っていたことは事実なのである。

だから、ユダヤ民族も同じであり、歴史的に実証され、分かっているダビデの時代以前から、割礼を施したり安息日を遵守するような習慣、立法を重視するような習慣は、あったわけであり、モーセという指導者がいて、ユダヤ民族がエジプトなどから迫害を受けた。というところまでは、恐らく事実であろうということである。

人は黒白、あるいは白黒の考え方を好むものだけど、やはり事実は、グレーである場合が多い。

 

イスラエルの歴史と現状

この二章の次には、イスラエル建国後、あるいは建国当時のことが、もと自衛官らしく、またこの本のタイトル通り、危機管理の観点から述べられている。

3章新たな戦争の本質を見抜く、4章テロリズムに対する危機管理、5章イスラエル社会の危機管理と銘打たれているが、この通りの内容と思う。

ユダヤの歴史や、トーラー・タルムードとの関係を横断的に交えながら、近現代イスラエルについて書かれており、大変興味深い点も多かった。ひとつ特異な点として、イスラエルでは、ユダヤの教えを遵守して、「国家公認で、暗殺や復讐が肯定されている」ということは、著者の方も若干の疑問を感じているようである。

また、世の中には、イスラエルを無条件に批判する人や、逆に、イスラエルを無条件に肯定する人がいるが、これについては、どちらも考えが足りない判断と思う。

例えば、自分の今住んでいるところに、急に軍隊が入ってきて、「気に入らない」あるいは「邪魔」という理由だけで、家財や土地を全部奪うようなことが起きた場合に、どう思うのか?

これをリアルに実感しないと、この問題について考えることはできない。このようなことが自分の身に起きた場合、あるいは、自分の先祖に起きていることが確実である場合のことを考えれば、非常に難しい問題であることを実感できるはずである。

 

個人的なまとめ

ユダヤの歴史を一言で言うならば、「憂患に生じて安楽に死するを知る」(孟子)の一言に尽きるだろう。しかし、「智者の慮は利害を雑う」(孫子)ものである。国家と民族存続に、必要以上に拘泥した考えに、当然のように弊害が潜んでいることは、本来ならば、考えるまでもないことのはずである。

 

この本を入手してユダヤ人の危機管理を学ぶ

 

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『渋沢栄一――社会企業家の先駆者』(岩波新書) を読んで

渋沢栄一の生涯を歴史資料から客観的にまとめた本。
同じタイプの本はあまり読んだことがないので、うまくまとめられていたかどうかは分からない。
ただ、なるべく主観を排して歴史資料に基づく説明に徹しているということはよく伝わってきた。だから、渋沢はこう考えていたみたいなことを決めつけていないという点、渋沢本人の著書論語と算盤 (角川ソフィア文庫)などと合わせて読むことが前提となっていると思われる点で良いと思う。そもそも、渋沢栄一の思想は、「道徳経済合一論」と言われているが、これも含めて渋沢を知るという意味で、まずは『論語と算盤』のほうを読んだほうがいい。

 

金儲けでない商売

この本の主題となっている渋沢栄一は、日本で最初の実業家、有名所では現在のみずほ銀行の初代頭取である。また、「民」の立場から、日本の商工業を発達させたという功績において、右に出る人はいない。そのような意味においても、まさに、「金儲けでない商売」を実践した人として間違いない。この人のことを知れば、誰もが、現代の「資本家連中」に爪の垢を煎じて飲ませてやりたいと思う人物である。

 

渋沢栄一が偉大である歴史的背景

また、「民の立場から商工業を発達させた」とはどんな意味なのかについては、少し歴史的な背景を述べないとならないだろう。
そもそも、江戸時代までには、商家や農家というのはあったけれど、それは全てお上の意向のもとに運営されていた。
現在では想像できないことであるが、例えば、農家に利発な子がいて、「ここできゅうりを大量に作って、きゅうりが不作の隣の藩に売りに行けば、みんなきゅうりが食べれてハッピーになれる」と、そういった商売を始めたとしよう。この商売は、利発な子の予想通りにうまく軌道に乗り、評判を集めるようになった。しかし、たまたま機嫌を悪くしていたお殿様がここを通りかかり、「おい、お前何勝手なことしとるんじゃ」の一言があったとしよう。そうしたら、誰がなんと言おうと、もうこの商売はやめなければならない。これが江戸時代だ。
そのような状況であるから、皆萎縮してしまって、そもそも皆がいいアイデアを考えようともしない。お殿様の気まぐれで、どんないい案でも簡単に潰されしまうのだ。そればかりか、あわよくいいアイデアを思いつき、殿様の了解を取りに行ったとしても、「おお、いいアイデアじゃな、それは越後屋にやらせよう」と言ったら、それでおしまいなのである。

このような状況が300年も続いていたわけだから、「民」が何か事業を立ち上げるということ自体が、もう本当にあり得ない状況だったのだ。確かに、形の上では明治維新を経て、それは可能であった。しかし、300年も続いた「民」のこの卑屈さはなかなか抜けないし、「民」からしても、いきなり「いいよ」と言われて、すぐに変われるわけではない。

そんな中、お上の立場を敢えて捨てて、「民」の立場からこの状況を打破しようといろいろ尽力したのが、渋沢栄一である。
こうして、渋沢栄一が、実際に事業を立ち上げ、その事業を運営し、そうすることで皆の手本となったし、その事業が日本の商工業化を推し進めたのだ。

 

渋沢栄一の成功談は他と違う

基本的に成功談というのは、ある集団から飛び出して、上位集団に移るというものが多い。
つまり、貧乏人が金持ちになる、庶民が総理大臣になる、平社員が社長になる、といった類である。これらは、成功談としては分かりやすいけれど、結局助かったのは自分だけという話ばかりである。
貧乏人の一人が金持ちになっても多くの貧乏人の地位が向上するわけではない。庶民の一人が総理大臣になっても誰もが権力から解き放たれるわけではない。平社員が一人社長になっても多くの人の生活が楽になるわけではない。その本人の地位だけが向上するに過ぎないのだ。
しかし、渋沢の成功談は違う。お殿様に絶対頭が上がらなかった単なる「民」が、渋沢の尽力によって明らかに地位向上したのである。この部分において、渋沢の成功談は、普通の成功談と全然質が違うのだ。

 

本の感想とは関係なくなってしまったが、渋沢栄一の偉大さはなんとなく分かっていただけたものと思う。また、このようなことを理解すると、この本や本人の著書をいっそう興味深く読んでいただけるだろう。

 

 

この本をアマゾンで入手して渋沢栄一について知る

論語と算盤 (角川ソフィア文庫)

 

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