平田 圭吾のページ

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『シンギュラリティは近い [エッセンス版]―人類が生命を超越するとき』(NHK出版) を読んで

シンギュラリティとは何か?

まずは、この本のタイトルともなっている「シンギュラリティ」について解説しなければならないだろう。そもそも、「シンギュラリティ」とは、この本の著者で、スキャナーの発明なども手掛けたユダヤアメリカ人、レイ・カーツワイル氏が提唱した言葉である。

シンギュラリティの本来の意味は、「特異点」であり、「理論上存在するはずだが数値で表せないところ」といった意味になる。金融で言えば複利計算や闇金トイチの成れの果て、もっとわかりやすく言うとネズミ算マルチ商法の最後ということになる。これらのものは、理論上は数年で膨大な金額や儲けを生み出すはずなのだが、いろいろな理由で実現が不可能であり、もっと言えば、むしろある一定の点を越えると別の理論や挙動が通用するものだ。それと同じで、要は、理論上は存在するはずなのだが、数の大きさが膨大になり過ぎて、現実としてはあり得ないし、数値として示せず、その後どうなるか分からない境界点のことだ。

 

シンギュラリティ後は攻殻機動隊が現実に?

それで、本来の意味はこれなのだけど、ここでのシンギュラリティとは、「IT文明の成れの果て」のことである。これはSFの映画を思い浮かべていただければわかる。よく本に出てくる例えは、アニメの攻殻機動隊だ。このアニメでは、人が自分の意識をインターネット上に移して自由に楽しんだり、体をすべて機械に取り換え永遠の命を得るというような設定があるらしい。まさに、この「SFの世界」が現実に訪れると提唱するのがレイカーツワイルその人であり、また、人間の文明がその「想像を絶する世界」に突入する境界が、特異点「シンギュラリティ」であるのだ。

衝撃的である。そこいらのおっさんがこんなことを言い出しても、「アニメの見過ぎだ」と相手にされないのであるが、このレイカーツワイルが、実際にIT分野の最前線を行き、アメリカの国防会議にも識者枠で呼ばれるほどの第一人者であるから事は重大なのだ。

さて、これでシンギュラリティの概要と、事の重大性は分かっていただけたものと思う。この本は、このシンギュラリティが、「いつ、どのように、どんな根拠のもとで来るのか」をレイカーツワイルが2006に著書にしたもののエッセンス版ということになる。他の本もいくらか読んでみたけれど、シンギュラリティのことを知りたいならこの本を読めば概要は分かるであろう。

 

 

レイ・カーツワイルの予測は正確

この本を読んで、何が驚くかというと、まず、10年以上も前に書かれたものであるはずなのに、「古くない」のである。しかも、昨日のガラケが今日のスマホという日進月歩のIT分野であるにも関わらずである。つまり、レイカーツワイルのITに関する知識と予測がかなり正確で、10年以上も前に書かれた本であるのに、今でも十分「新しいと感じる」ということである。もちろん、IT分野に携わっている人はそうでないかもしれないが、私のように出された商品に接するくらいの人ならば、必ずや「そんなにもIT分野進んでいたの」というような浦島太郎状態を味わうことになるだろう。

このように正確さを実感せざるを得ないからこそ、「SFの世界」が現実となる通過点「シンギュラリティ」が現実味を帯びてくる。

また、このような正確な予測をなぜレイカーツワイル氏ができるかと言えば、「これほどコンピュータが好きなのに、コンピュータの欠点を素直に認めている」ということがある。つまり、コンピュータが好きな人は、普通ならば、コンピュータの可能性を信じたいし、コンピュータの美点しか見ない。例えるならば、盆栽を好きな人が、「盆栽は動かないからいい、この奥深さが分からないのか」と盆栽嫌いな人を馬鹿にするようなところが一切ないのだ。盆栽が好きでありながら、「盆栽は動かないからつまらないだろう」と素直に認めている。このような心の部分の「正確さへの壁」を越えているからこそ、正確だと言うのだし、その意味において、ITのことをよく知ることもできる本だと思う。

 

シンギュラリティ後はどうなるのか

この上で、シンギュラリティが来るためには、GNRの技術進展が必要だと言う。GはGene遺伝子、NはNanoナノ技術(ナノはミクロの千分の一)、RはRobotロボットである。要は、ナノ技術が進んで小さいロボットが製造可能になり、このロボットが遺伝子に干渉できれば、SFの世界が実現するということである。

それで、氏は2045年ころに、シンギュラリティが訪れると言っている。また、その先はどうなるか分からないとも認めている。というのも、最初にも述べたように、「理論上は存在するはずなのだが、数の大きさが膨大になり過ぎて数値として示せない部分」だからこそ、そこが「シンギュラリティ」であるからだ。実際にシンギュラリティが来るのかどうかは置いておいて、「SFの世界が実現することが現実味を帯びてきた」という意味で、シンギュラリティについて知っていても損はないと思う。

あと、印象に残っている小話として、「コンピュータが熱を発するのは情報を消去しているからだ」との話があった。つまり、人も何らかのものを消費し続けているのだから体温があるのだし、何かを忘れるとき、人も熱を発しているのかもしれない。また、「10キロほどの石」でも量子レベルで制御できれば、スーパーコンピュータより上の演算能力を得られるそうだ。このようなことまで細かく計算していて、興味深かった。

本の評価は★5だが、面白かったのと、上に述べたような正確性を評価したからである。シンギュラリティについては、ひとつだけ言いたい。198X年ころには、ちょうど21世紀、2000年という節目の手前で、未来への希望が膨らみ、「未来の絵」が子供の手によってたくさん書かれた。あのたくさんの「未来の絵」を思い出さずにはいられないのだ。

 

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『植物は<知性>をもっている―20の感覚で思考する生命システム』(NHK出版) を読んで

わかりやすくて面白い本だった。

 

植物に関心があるほど面白い

タイトルは衝撃的である。けれど、実は、これは「知性」の定義次第の話であって、植物が好きで、植物をよく観察している人にとっては当たり前のことを言っていたように思われる。ただ、私は、植物というか、動物というか全般が好きで、普通の人に比べたらかなり観察している部類に入る。さすがにプロ(農家)ほどではないが。まあ、そのくらいに植物に「関心」を持っている人にすれば、「ああ、そうか、植物の身としてみればそうゆうことだったんだ」と納得できる話が多い。だから面白い。

 

植物の「知性」は定義次第

それで、そのように思わせる「植物の知性」の定義であるけれど、この本では、「知性」を「生き抜くための問題解決能力」と定義しているのだ。この定義はある意味では人間一般、動物一般に通じることである。この「知性」の定義のもと、人間と植物を比べたら、植物のほうが「知性」があるのではないかとすら思う。つまり、人間の知性は、ご存知の通り、武器などの自己破壊、略奪、搾取、贅沢、奢侈といったおおよそ「生き抜くため」とは正反対の方向に向かうからだ。

この本では、こういった「知性の逆転」、または「(人間の認識している)知性の見直し」が裏主題になっている。だから、この観点から関心を持ってこの本を読むことができれば、相当にいろいろな意味で面白いし、考えるキッカケにもなるだろう。

 

植物はよく考えると不思議

この裏主題を伝えるために、この本ではまず、植物が特に西洋において石などと同等の「命を持たないもの」として扱われてきた歴史が述べられている。ただ、植物も生物であると普通に認識している東洋人からすれば「いやそこまで貶めなくてもいいだろ」というくらいの筆調で、笑ってしまう部分もある。

次には動物との違いが詳細に述べられ、動かないこと、モジュール構造であることなど、当たり前と言えば当たり前だけど、改めて細かく言われると再発見としか言えないことが書かれている。ちなみに、モジュール構造とは、動物のように器官がかたまりになっていないことで、人は頭を切られたらそれで終わりだけど、植物は花を切られても死なない構造ということである。

 

植物は競争しないがコミュニケーションはする

こうして、この本の一番の見どころでもある、植物が、人間よりはるかに過敏な「感覚器官」などを使って、「生き抜くための」驚くべき「問題解決能力」を発揮している具体例が次々と述べられていく。また、人間の「知性」に近い、「コミュニケーション」も行っている事例が述べられる。ただし、植物のコミュニケーションは、人間のような言葉でのやり取りとは当然に違う。

印象に残っている具体例としては、同じ面積の苗床に、同じ種類の雑草を20株植えると、この20株は均等に育つらしい。田んぼを思い浮かべていただけば分かる。というのも、どれか一つの株があまりにも大きくなって他のを枯らしてしまうより、均等に育つことによって、より多くの種子を残すことができるからだ。つまり、植物は「仲間内で競争しない」のだ。一方で、別の種類のを20株植えると、植物は「競争して自分が一番になろうとする」。この競争するしないを分かつには、絶対に「植物間、株同士での意思伝達」が必要である。つまり、植物はコミュニケーションを何らかの方法で取っていることになる。こういった、植物に関する「当たり前だけど、よく考えると不思議なこと」が、この本にはたくさん書かれている。最初にも述べたように、植物に関心を持っている人にとっては、かなり興味深く、また面白い本である。

 

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『プラグマティズム入門』 (ちくま新書) を読んで

プラグマティズムとは何か、ということ、またプラグマティズムの歴史について、うまくまとめられていたと思う。
「真理を求めない哲学」という「特異な哲学」である「プラグマティズム」について、歴史や概要は十分理解できるので、哲学に興味のある人にはそれなりに興味を持てる内容の本であると思う。

プラグマティズムとは何か

そもそもプラグマティズムとは何か。ということであるが、この言葉は、ギリシア語の「プラグマ:行為」が語源となっている。先にも、真理を求めない哲学、とレッテル貼りしたように、真理truthを追求せず、プラグマ:行為や実用や方法、に焦点を当てた哲学であるから、こういった哲学や論理学をまとめてプラグマティズムと言う。最近では、実用主義、実際主義という意味で使われることが多いらしい。しかし、後に学派が分化したことにより、そもそも定義は曖昧な言葉であり、人によって解釈はかなり違う。そのため、文脈で判断するのが良いそうだ。私は目にしたことはないのでよくわからないが。

 

プラグマティズムはなぜ言われ始めたか

プラグマティズム創始者はパースという論理学者で、なぜパースがプラグマティズムを提唱しだしたか、ということは興味深いのでここに示したい。

 

アリストテレスの経験論的哲学

そもそも、西洋哲学の主流は、もともとアリストテレスの「経験論的哲学」であった。経験論的哲学とは、厳密性に目をつむって言えば、「自分の経験こそが真理である」という考え方だ。だから、ガリレオコペルニクスが出てくるまで、地球は広大な平面形であると信じられていた。なぜなら、経験的に、地面も海も、地平線や水平線なのであり、平面かつ直線であるからだ。少しでも水平線が、水球線であったのなら、経験論的に地球は球形ということになっていただろう。

 

デカルト懐疑論的哲学(現在の科学的見地)

しかし、このアリストテレスの考え方に異を唱えたのが、デカルトなど、17世紀ころの哲学者たちである。ここでは、経験は確かに大事だけど、主観を排する必要があるのでないの?ということが言われ始めた。というのも、見えないものが見え始めたからだ。つまり、太陽や月や他の星を、精度の高い望遠鏡などで見てみると、今まで見えなかった法則性が見えるようになった。この見えるようになった法則性について詳しく計算してみると、地球が球形であるほうが全ておいて辻褄が合う。水平線は直線だという主観を越え、むしろ主観を懐疑することで、真理に近づくことができるとわかり始めた。これが現在の科学である。経験は、主観という不純物を排することで実験や再現性へと昇華したのだ。こうして、万有引力の法則に代表されるような、スマートかつシンプルで美しい、自然の摂理が真理として定式化されることになる。

 

パースのプラグマティズム

ここでやっと出てくるのが、パースのプラグマティズムである。「真理そのもの」を見つめるという従来のやり方には限界がある。それに面白くないしもう飽きた。だから方法や実用性、真理を使った行為のほうに目を向けてみよう。というのがパースの考えたことなのだ。 

つまり、真理を、『discover(覆いcoverを外すdis)するもの』、あるいは聖書に言うところの「隠されていて明らかにならないものはない」ものから、『それ以外に視点を変えてなんとかするもの(transfer and ~~)』にしたということになる。
このように微妙な表現にしたのは、この後のプラグマティズム哲学者が、まさに上の文脈で「なんとかする」(and ~~)の部分をいろいろに解釈したり、いろいろに考えたりして、プラグマティズムという哲学が分化したからである。

 

プラグマティズムの分化

この分化の系統を、この本では、年代順に、デューイ、クワイン、ローティ、パトナム、プランダムあとほかいろいろという感じに追っている。しかし、現代のプラグマティズムの系統を説明する第三章以降から、批判に批判を重ね、観点を変えた上に、さらにそうしてできた観点をまた別の観点から見たりしている。正直な所、確かに違うんだろうけど、そこまで詳しく知りたいとは思わない的な話になっている。詳しく理解する気になれなかったが、それだけ詳しい本であるということも確かだとは思う。

 

プラグマティズムアメリ

それで、このプラグマティズムアメリカでかなり主流となった哲学らしいが、歴史やなんかを考えると非常に納得できると思った。つまり、アメリカが強国化して研究大国となり始めたのは、1920年ころの第一大戦後であるのだけど、このころには、discoverされるような真理はほとんど出尽くしていたからである。おそらく、最後に発見された、スマートかつシンプルで美しい自然の摂理は、アインシュタイン相対性理論であろうが、これが認知されたのは1920年ころのことである。
このような意味で、新興国アメリカは、もう学術的な分野で偉業を達成することはできなかった。だからこそ、プラグマティズムの考え方による、discoverするのではない真理、実用性や行為に焦点を当てた真理が必要だったのだ。
だから、アメリカの強国化、またその基板となった桁違いの研究費は、プラグマティズムに支えられていたという側面もあったのだろうと思って非常に納得できた。

 

プラグマティズムは仏教の唯識派

ただ、プラグマティズムの考え方自体は、ナーガルジュナによって極め尽くされてしまった「空」と中観派に対する、後の唯識派みたいなものだろうとも思った。結局歴史は繰り返されるし、所詮人間の考えることは同じようなパターンに支配されているのだろう。

 

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