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『プラグマティズム入門』 (ちくま新書) を読んで

プラグマティズムとは何か、ということ、またプラグマティズムの歴史について、うまくまとめられていたと思う。
「真理を求めない哲学」という「特異な哲学」である「プラグマティズム」について、歴史や概要は十分理解できるので、哲学に興味のある人にはそれなりに興味を持てる内容の本であると思う。

プラグマティズムとは何か

そもそもプラグマティズムとは何か。ということであるが、この言葉は、ギリシア語の「プラグマ:行為」が語源となっている。先にも、真理を求めない哲学、とレッテル貼りしたように、真理truthを追求せず、プラグマ:行為や実用や方法、に焦点を当てた哲学であるから、こういった哲学や論理学をまとめてプラグマティズムと言う。最近では、実用主義、実際主義という意味で使われることが多いらしい。しかし、後に学派が分化したことにより、そもそも定義は曖昧な言葉であり、人によって解釈はかなり違う。そのため、文脈で判断するのが良いそうだ。私は目にしたことはないのでよくわからないが。

 

プラグマティズムはなぜ言われ始めたか

プラグマティズム創始者はパースという論理学者で、なぜパースがプラグマティズムを提唱しだしたか、ということは興味深いのでここに示したい。

 

アリストテレスの経験論的哲学

そもそも、西洋哲学の主流は、もともとアリストテレスの「経験論的哲学」であった。経験論的哲学とは、厳密性に目をつむって言えば、「自分の経験こそが真理である」という考え方だ。だから、ガリレオコペルニクスが出てくるまで、地球は広大な平面形であると信じられていた。なぜなら、経験的に、地面も海も、地平線や水平線なのであり、平面かつ直線であるからだ。少しでも水平線が、水球線であったのなら、経験論的に地球は球形ということになっていただろう。

 

デカルト懐疑論的哲学(現在の科学的見地)

しかし、このアリストテレスの考え方に異を唱えたのが、デカルトなど、17世紀ころの哲学者たちである。ここでは、経験は確かに大事だけど、主観を排する必要があるのでないの?ということが言われ始めた。というのも、見えないものが見え始めたからだ。つまり、太陽や月や他の星を、精度の高い望遠鏡などで見てみると、今まで見えなかった法則性が見えるようになった。この見えるようになった法則性について詳しく計算してみると、地球が球形であるほうが全ておいて辻褄が合う。水平線は直線だという主観を越え、むしろ主観を懐疑することで、真理に近づくことができるとわかり始めた。これが現在の科学である。経験は、主観という不純物を排することで実験や再現性へと昇華したのだ。こうして、万有引力の法則に代表されるような、スマートかつシンプルで美しい、自然の摂理が真理として定式化されることになる。

 

パースのプラグマティズム

ここでやっと出てくるのが、パースのプラグマティズムである。「真理そのもの」を見つめるという従来のやり方には限界がある。それに面白くないしもう飽きた。だから方法や実用性、真理を使った行為のほうに目を向けてみよう。というのがパースの考えたことなのだ。 

つまり、真理を、『discover(覆いcoverを外すdis)するもの』、あるいは聖書に言うところの「隠されていて明らかにならないものはない」ものから、『それ以外に視点を変えてなんとかするもの(transfer and ~~)』にしたということになる。
このように微妙な表現にしたのは、この後のプラグマティズム哲学者が、まさに上の文脈で「なんとかする」(and ~~)の部分をいろいろに解釈したり、いろいろに考えたりして、プラグマティズムという哲学が分化したからである。

 

プラグマティズムの分化

この分化の系統を、この本では、年代順に、デューイ、クワイン、ローティ、パトナム、プランダムあとほかいろいろという感じに追っている。しかし、現代のプラグマティズムの系統を説明する第三章以降から、批判に批判を重ね、観点を変えた上に、さらにそうしてできた観点をまた別の観点から見たりしている。正直な所、確かに違うんだろうけど、そこまで詳しく知りたいとは思わない的な話になっている。詳しく理解する気になれなかったが、それだけ詳しい本であるということも確かだとは思う。

 

プラグマティズムアメリ

それで、このプラグマティズムアメリカでかなり主流となった哲学らしいが、歴史やなんかを考えると非常に納得できると思った。つまり、アメリカが強国化して研究大国となり始めたのは、1920年ころの第一大戦後であるのだけど、このころには、discoverされるような真理はほとんど出尽くしていたからである。おそらく、最後に発見された、スマートかつシンプルで美しい自然の摂理は、アインシュタイン相対性理論であろうが、これが認知されたのは1920年ころのことである。
このような意味で、新興国アメリカは、もう学術的な分野で偉業を達成することはできなかった。だからこそ、プラグマティズムの考え方による、discoverするのではない真理、実用性や行為に焦点を当てた真理が必要だったのだ。
だから、アメリカの強国化、またその基板となった桁違いの研究費は、プラグマティズムに支えられていたという側面もあったのだろうと思って非常に納得できた。

 

プラグマティズムは仏教の唯識派

ただ、プラグマティズムの考え方自体は、ナーガルジュナによって極め尽くされてしまった「空」と中観派に対する、後の唯識派みたいなものだろうとも思った。結局歴史は繰り返されるし、所詮人間の考えることは同じようなパターンに支配されているのだろう。

 

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