平田 圭吾のページ

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『学問のすすめ』現代語訳7 なぜ国民は政府に従わなければならないのか

二編3 政府と人民との間に見苦しきことあり

 今まで述べた議論を世の中のことに当てはめてみる。すると、旧幕府の時代には、士(侍)とその他の民との身分の差が甚だしくて、士族はみだりに権威を振るい、百姓や町人への扱いはまるで罪人を扱うかのようであり、「切り捨て御免」という法もあった。この法によると、平民の生命はその平民自身の生命でなくて借り物に他ならなかった。百姓他、平民は縁もゆかりもない士族に平身低頭し、外では道を避け、内では席を譲り、甚だしいことには自分の家で飼っている馬にも乗れないとほどの不便を強いられていた。これらは、実に「けしからん」ことだ。


 これは、士族と平民と一人ずつ対したときの不平等であるけれど、政府と人民との間に至っては、なおこれよりも見苦しいことがあった。幕府はもちろん、三百ある諸候(お殿様)の領内にまで小政府を立てて、百姓町人を勝手次第に取扱い、時には慈悲に似たようなこともあったけれど、その実は人の持ち前の権利通義を認めることではなくて、実に見るに忍びないことが多かった。

 そもそも、政府と人民との間柄というものは、前にも言ったように、ただ強弱の有様が違うだけであって、権利の違いはないはずである。百姓は米を作って人を養い、町人は物を売買して世の便利を達する。これがすなわち百姓や町人の商売である。また、政府とは、法令を設けて悪人を制し善人を保護するものである。これがすなわち、政府の商売だ。

 しかし、この政府の商売をするためには莫大な資金が必要であり、政府には米も金もない。このため、百姓や町人に年貢や税金を出してもらって政府の収入をまかなうことになる。本来このように、双方一致の上で相談を取り決めたはずだ。これがすなわち、政府と人民との約束である。

 ならば、百姓町人は、年貢や税金を出すことによって固く国法を守れば、その職分を尽くしていると言うべきであり、政府は、年貢や税金を受け取って正しくそれを使うことで人民を保護したのならば、その職分を尽くしているというべきである。

 このように、双方が、その職分を尽くして約束を破っていないのならば、これ以上は何の申し分もない。おのおのがその権利通義をたくましくしても、少しも妨げをするということはあり得ないはずだ。

 そうであるはずなのだけど、幕府の時代には政府のことを御上様と唱え、御上の御用とあれば馬鹿に威光を振うのみならず、道中の旅館でまでもただ飯を食い倒し、川渡しにも金を払わず、荷物持ちにも給料を払わずに、甚だしい場合ではその荷物持ちを恐喝して酒代を巻き上げるといったようなこともあった。正気の沙汰とは言えない。

 または、殿様の趣味のものずきで大きな建物を建てたり、役人が殿様への忖度(そんたく)でどうでもいいようなことをやり始め、無益なことをして金を使い果たすと、今度は言葉をいろいろと飾って年貢を増やし御用金を言い付け、これを御国恩に報いると言う。そもそも御国恩とは何のことを言っているのだ。

 百姓町人が安穏に家業を営んで盗賊や人殺しの心配もなく生活できることを、政府の御恩と言うべきである。しかし、そもそもこのようにして安穏に生活できるのは、政府の法があるためではあるけれども、法を設けて人民を保護することは政府の商売がら当然の職分なのである。ならば、これは御恩と言うべきものではない。 というのも、もしも、政府が人民に対して、この保護することをもって御恩と言うのならば、百姓や町人は、年貢や税金を納めていることを政府に対して御恩だとすることができる。

 政府が、公共の仕事や裁判をしていることを偉ぶって「お前たちは政府の御厄介になっているではないか」と言うのならば、人民も、収穫の五割も年貢を納めていることを「政府も年貢の御厄介になっているではないか」と言ってやるべきである。しかし、これでは、売り言葉に買い言葉で、果てしないことになってしまう。だから、とにもかくにも、お互いに等しく恩のあるものであるならば、片方だけが礼を言って、もう片方は礼を言わなくていいという道理はないのだ。

 

【解説】政府と国民は同等

 福沢諭吉は実にユーモアがあるなと思う。政府が「お前らは我らの世話になっているだろ」と言うのなら、国民も「お前らは我らの税金の世話になっているだろ」と言うのが当然だと言うのだ。これは、本来なら会社や組織の上下関係でも言えることだろう。つまり、社長や株主と社員の関係である。何も社員は社長や株主に卑屈になる必要はない。社員がいなくなれば、社長も株主もただの人である。

 さて、ここにあるような「政府と国民の約束」のことを「社会契約」と言う。その概略は、ここで福沢が述べているように、政府の役割と国民の役割を明確化し、お互いが約束事を交わしていると仮定する理論である。仮定すると言うのは、実際、日本に生まれ日本で生活するのなら、それがいかに不服で約束する気がなくとも、日本政府とお互いの役割を約束するしかないからだ。実際に約束したわけではないが約束したことになっている。だから仮定なのだが、日本政府のやり方がどうしても不服ならば、海外に移住するか、選挙に参加して地道に日本政府を変えていくかの二通りしかない。

 事実としては上に述べたようにするよりほかないけれど、中には「いやそんな理論は納得できない」「なんでそんなことになったのか」と思われる方もあるだろう。ここでは、その疑問に答えてくれる本を紹介したい。

 そもそも、「社会契約」という考え方は、文明文化の発展や生活形態の変化といった社会背景から、国家に「主権」が必要とされるようになったことに端を発し、さらに、その「主権」が「君主」から「国民」に移り、現在の民主主義に変化してきた過程で生まれた考え方である。この過程を代表的な古典を引用しながら述べていく、近代政治哲学 ──自然・主権・行政 (ちくま新書)は大変な良著だ。政治哲学の歴史をわかりやすくまとめているうえに、それらの記述を通して、現在の政治の問題点も浮き彫りしている。
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