平田 圭吾のページ

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『学問のすすめ』現代語訳14 個人としては立派な人物なのに、組織になると愚者になる

四編2 一国の文明は独り政府の力をもって進むべきものに非ず

 最近の我が国の状況を察して、外国に劣っていると思われるものは、学術、商売、法律である。世界の文明は専らこの三者に関するもので、この三者が備わっていないようでは、国が独立の地位を得ていないことは識者でなくても分かることだ。しかし、現在わが国ではこのうちの一つも形すらできていない。

 

 政府が一新してから、政府の人間が力を尽くしていないというわけでもないし、その才力が稚拙であるというわけでもないのだけど、事を行おうとするのにどうしようもない原因があって思うようにいかないことが多い。その原因こそが国民の無智文盲、すなわちこれである。

 政府は既にこの原因を知って、しきりに学術を勧めて法律を議論し、商売のやり方を示すなど、あるいは人民に論説したりまたは自ら先例を示して、やれる限りのことをやってはいるのだけど、今日になってもいまだ実際の効果が現れず、政府は依然として専制の政府であり、人民は相変わらず無気力な愚民ばかりだ。

 そうとは言っても、少しは進歩したようなこともあるけれど、これに用いている力と費やすところの金とに比べてみると、その結果が伴っていないのが目に見えてわかるのはどうしてだろうか。それは、一国の文明が、政府の独力のみではなんとも進まないからである。

 

 このように言う人もあるかもしれない。政府はしばらくの間だけ、この愚民を制御するのに一時の術策を用いて、その智徳が進むのを待ってから、その後に国民自身が自ら文明の域に入るらせるようにすればいいのだと。この説は言うことはできるけれども行うことはできない。

 われらが日本全国の人民は、数千百年専制政治に苦しめられて、人々はその心に思うところのことを表に出すこともできなかった。欺いては安全を貪り、偽っては罪を逃れ、欺詐術策は人生必携の備えとなり、不誠不実は日常の習慣となり、これを恥だと思う者もなくこれが正しくないのではないかと疑う者もなく、一身の廉恥心は既に地上から消え尽きてしまった。このように、自分の身の恥の事すら忘れているのに、どうして国のことを考えるような余裕があるだろうか。

 そして、政府はこの悪い弊害をなんとかしようとしてますます威勢を張って、人民をおどしたり叱ったりして、無理に誠実にしようとし、かえってますます不信に導き、その状況はあたかも火で火を消そうとするような状況になっている。こうして遂には上下の間に大きな隔たりができてしまって、一種無形の気風と言うべきものができている。その気風はいわゆる「spirit(精神、魂)」であって、簡単にこれを動かすこともできない。

 最近になって政府の形は大きく改まったのであるけれども、以前からの専制抑圧の気風は今なお残っている。人民も権利をやや得たようではあるけれども、その卑屈不信の気風は依然として昔と何も変わっていない。

 この気風は無形無体で、簡単に一個人のこんな場面だと示すことはできないけれども、この気風の実力は相当に強いもので、世間全体のことがらに顕われていることを見れば、明らかにそれが空虚なものでないことを知ることができる。

 試みに、その一例を挙げてみよう。現在の政府には人物が少ないというわけではない。個人的にその人たちの言葉や行いを評価するに、ほとんど皆が判断力、行動力共に優れた知見も広い士君子であり、私はこれを非難することができないばかりか、その言行は慕うべきものでさえある。また別の方向から言えば、平民と言っても全て皆が皆、無気無力の愚民ばかりというわけでなく、万に一人は公明誠実の良民というべき人もいる。

 そうであるけれど、この士君子、政府にて政治を取り行うとなると、そのやり方は私にとってあまり感心できないものがとても多くて、また先の良民も、政府に接するとたちまちにその節操を屈してしまって、欺詐術策でもって政府の役人を欺き、そのことを恥じているような者はない。

 この士君子にしてこの政治を行い、この良民にしてこの卑怯な行いに出るのはどうしてだろうか。あたかも、一つの体に頭が二つあるかのようである。つまり、個人的な立場では智者と言えるのに、政府の一員となると愚者としか思えない。また、個々人として散開すると物事に明るいのに、集めると物事に暗くなる。政府というものとは智者が集まって、一人の愚かな人と同じ行いをするようなところと言える。どうして怪しまないでいられようか。

 つまるところ、こうなってしまう理由は、かの気風なるものに制せられてしまって、人々が自ずから一個人の考えを実行に移すことができないからではないか。明治維新以来、政府は、学術、法律、商売などを活発にしようとしているのに大した功績がないのも、その病の原因は恐らくここに在るであろう。

 こうして考えてみると、今一時の術を使ってその下民をうまく操り、その智徳が進むのを待つということは、威勢でもって人を文明に強いるようなことであるか、そうでなければ、欺いて善に帰そうという術策のどちらかということになる。

 政府が威勢を使えば人民も偽りでこれに応じて、政府が欺くやり方を使えば自民は表向きだけこれに従うようになる。これはとても上策と言うべきものではない。たとえその策がいくら巧みであっても、文明の事実に関しては益がないのは当然である。だから、世の文明を進めるためには、ただ政府の力のみに頼ってはならないのだ。

 

【解説】個人としては立派な人物なのに、組織になると愚者になる

 ここで福沢が言っていることは、「学術・商売・法律の発展は、政府のみの主導ではありえない。民間で問題意識が高まるような独立の気風が必要だ」ということになる。ここに言われていることは現代の感覚からすればピンと来ない。だが、それもそのはずで、ここで福沢が言っていることが、現代では自然に起きているからピンとこないのだ。

 というのも、政府が何らかの法律や方針を打ち出す際、その前にはほぼ必ず民間で問題意識が高まる時期がある。例えば、ヘイトスピーチ規制法であるが、SNSで差別発言による攻撃が激化し、かなり問題意識が高まることがあった。政府はこれに対応する形でヘイトスピーチ規制法を施行したに過ぎない。また、ハラスメント規制法もそうであるし、高齢者の運転免許の自主返納に関する法整備についても同じことが言える。商売、ビジネスのことは言うまでもなく、民間企業が新たな商売を次々と生み出している。

 ここで福沢が言うようなことは、現代ではクリアできているのだ。だからこそ、読んでもなにかピンと来ない。私自身、批判的なことを解説しなければ進歩はない、というような思い込みがあるために、現代の問題点を批判し、解決するような解説に徹してきた。しかし、ここは、明治初期と比べて日本に独立の気風が備わっていることを素直に喜びたい。

 ただ、途中に、「個人としては立派な人物なのに、組織になると愚者になる」という記述があった。この問題については、のちに心理学が発展したこと、ナチスドイツという失敗からの反省により、その仕組みが明らかとなっているので、この点については解説したい。

 まず、ナチスの失敗のうちでも最も有名なものは、ユダヤ人の大虐殺であり、悲劇の記憶アウシュビッツと言えよう。このアウシュビッツの総司令はアイヒマンという人であったが、このアイヒマンガス室での虐殺命令を出していた張本人であるにも関わらず、アウシュビッツに近づくことを異常なまでに嫌い、中から聞こえてくる悲鳴にもいちいち心を痛めていたということらしい。これは一般的な見解からすれば疑問の残ることだ。総司令が喜び勇んで虐殺を行っていたのではないかと。

 しかし、事実そうであるという記録が至る所に残っているのである。では、なぜそうなったのか。簡単に言ってしまえば、「赤信号みんなで渡れば怖くない」ということであったのだ。

 後に、「アイヒマン実験」という心理学実験が行われ、人は、権威付けされた上で「やっていい」と言われると、どんな悪事でもやってしまうことが明らかとなった。まさに、「個人としては立派な人物なのに、組織になると愚者になる」という良い事例だ。詳しくはここには書ききれないので、推薦書として社会心理学講義:〈閉ざされた社会〉と〈開かれた社会〉 (筑摩選書)を紹介する。多岐にわたる社会と個人心理の関係、ここに福沢の言う「気風」の仕組みが、実にわかりやすく、また興味深く書かれている大変な良著である。とにかく面白いのでぜひとも手に取っていただきたい。

 

 

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