平田 圭吾のページ

翻訳や著作にあたって感じたことなど、漢籍の読み方、本の選び方など(記事の無断使用・転載・複写を固く禁じます)ツイッター@kann_seki お問い合わせ・ご意見などはkeigossa☆yahoo.co.jp

『学問のすすめ』現代語訳6 差別と区別

二編2 人は同等なる事  

 初編のはじめに、人は万人が同じ身分であり、生まれながらにして上下の差別といったものはなく自由自在云々とある。今、この意味を押し広めて述べようと思う。

 人が生まれることは天によってだけ決まることで、人の力ではどうすることもできない。そして、この人々が互いに敬愛しておのおのがその職分を尽くし、お互いに妨げをしてはならない理由とは、みな同類の人間であって、ともにただ一つの天を共有し、また同じく天地の間に造られたものであるからだ。例えば、家族で兄弟が仲良くすることは、もともと同じ一家の兄弟であり、同じ一父母を共有しているという無視し得ない事実があるからである。

 

 こういったように人は同じく天から造られたものであるのだから、人と人とを比べてみればこれは全て同等であると言える。ただし、その同等とは有様が同じであることを言うのではない、権利通義が同じであると言っているのだ。

 その有様を論ずると、貧富強弱智愚の差があることは甚だしい。たとえば、大名や華族で御殿に住んで良い服を着て良い食べ物を食べている人もいれば、雇われ人で店の物置に下宿して今日の衣食に差支えのある人もいる。才知たくましく役人や商人になって天下を動かす者もいれば、智恵も分別もなくて一生小さな駄菓子屋を営んでいる人もいる。強い相撲取りもいれば、か弱いお姫様もいる。こういったように有様について論ずると、そこには雲泥の差がある。しかし、また別の視点からこのことを考えて、その人々の権利通義について論ずるときは、どのように考えたところで、この人々は同等であって軽重の差は毛ほどもないのだ。

 つまり、その権利通義とは、人々が自分の命を重んじ、自分の財産を守り、自分の名誉と尊厳を大切にするといった大義のことなのである。天が人を生ずると、天は人に体と心の働きを与えて、人々に自ずからこの通義を実現させようと思わせる仕掛けを施す。だから、どんなことがあっても、人の力でこの権利通義を害しようとしてはならない。

 大名の命であっても貧しい雇われ人の命であっても、命の重さは同じなのだ。豪商の百万両の金も、駄菓子売りの四文の銭も、自分のものとして守る心は同じなのだ。世の悪いことわざに、「泣く子と地頭には叶わず」とか「親と主人は無理を言うもの」といったものがある。こういった言葉を持ち出しては、人の権利通義を曲げられるようなもののように言う人もいるのだけど、これは有様と通義の違いを分かっていない人の理論である。

 地頭と百姓とは、有様は異なってはいるが、権利に関してはなんら異なっていない。百姓が痛いと思うことはやはり地頭も痛いと思うはずであるし、地頭が食べて甘いと思うものはやはり百姓が食べても甘いと思うはずなのだ。

 この上で、痛いことは避けて甘いものを取ろうとすることは人の人情であり、他の人に迷惑をかけないようにして、したいことをするをすることが権利である。この権利に関しては、地頭と百姓の間に軽重の差は微塵もない。ただ、地頭は富んでいて強く、百姓は貧しくて弱いというだけのことなのだ。貧富と強弱は人の有様であって、そもそも同じであるはずがない。

 それなのに、富強の勢いで貧弱の人に無理を加えようとするならば、有様が違うことをいいことに権利を侵害することになるのではないか。これは例えるならば、力持ちが自分には腕力があると言って、その力の勢いでもって隣の人の腕を折るような話である。その隣の人の力はもちろんその力持ちよりも弱いのだろうけど、力が弱ければ弱いなりに、その腕を使って自分の便利を達しても何の差支えもないはずだ。なのに、なんの言われもなく力持ちに腕を折られるなら迷惑至極と言うべきものである。

 

【解説】差別と区別

  この福沢の理論を借りれば、昨今よく話題となる差別発言についても良い指標が得られるだろう。そこでキーワードとなるのが、有様と権利(原文では権理通義)、また、区別と差別ということになる。

 有様が違う人をそのように判断してそのように扱うのは区別である。例えば、女性は有様が女性であるから、当然に女性用のトイレに入ってもらわなければならないし、男性用のトイレを使ってもらうわけにはいかない。これは区別である。有様が違えばそのように区分けして、別にするしかない部分がある。しかし、当然、これには「決めつけ」も入ってくる。あなたは女性だ、という決めつけがなければ区別はできない。ということは、決めつけることそれ自体は、差別とは違うのではないか。

 では差別とは何か。差別とは、その人の権利通義を曲げて、無理を加えることである。有様の違いで自分が有利なのをいいことに、権利通義を犯すのが差別なのだ。力があれば人に何をしてもいいというわけではないし、悪いことをしているやつだからとその人に何をしてもいいというわけではない。だからこそ、「決めつけ」に、「無理を加えるという理不尽」や「攻撃」が付随するとき、それは差別となるのである。決めつけることそれ自体は、差別ではない。あくまでも区別だ。

 ただ、理不尽を人に加えて平気な人、人を攻撃して平気な人というのは、知力に劣るか薄情な人である場合が多く、その「決めつけ」が妥当でない場合が多い。だから、その人としては「区別しているだけだ」という意識しかないのに、それは他の人から見れば単なる「差別」になってしまう。差別と区別を分かつのは、「決めつけることそれ自体」ではなくて、結局、攻撃性の有無や、その人の知力や人間力ということになる。愚劣で争い好きな人が区別をすれば、それはいつでも差別となる。しかし、賢明で争いを好まない人がどれだけ区別をしても、それが差別となることはない。

 ところで、こういったこと(差別の理不尽)に気が付く方は、思いやりのある方が多く、思いやりのある優しい人は、変な人に絡まれやすい。ここまで興味を持って読んでくださった方の中には、変な人に無駄に足を引っ張られて、憎しみを負い、その憎しみを負う自分を快からず思っている方もあるかもしれない。そのような方には、ぜひとも「憎しみを乗り越えて」(Kindle版のみ)を読んでいただきたい。憎しみを解くことはできなくとも、少しは気を楽にしていただけるものと思う。

 

 

 

 f:id:hiratakeigo:20190525141312j:plain

 f:id:hiratakeigo:20190525235310j:plain

 

『学問のすすめ』現代語訳5 文字は学ぶための道具

二編1(端書) 学問とは広き言葉にて

 学問とは広さのある言葉で、無形の学問もあれば、有形の学問もある。心学、神学、理学などは形の無い学問である。天文、地理、究理、化学などは形のある学問である。しかし、いずれもの学問も全て、知識や見聞の領域を広め、物事の道理をわきまえ、人たる者の職分を知ることだ。

 知識や見聞を広くしていくためには、人の意見を聞いたり、自分で工夫をこらしたり、または書物を読まないとならない。だから、学問をするにあたっては文字を知る必要がある。けれど、昔から世間の人が思っているように、ただ文字を読むだけで学問をしたと思うならば、それはとんだ勘違いである。

 文字というものは、そもそも学問をするための道具であって、例えば、家を立てるにはトンカチやノコギリが必要であるのと同じだ。トンカチやノコギリは大工仕事になくてはならないものであるけれども、それらの道具の名前は知っていても、家の作り方を知らないのならば、この人を大工と言うことはできない。まさしくこのようなわけで、文字を読むことは知っているけれども物事の道理を知らない人は、これを学者と言うべきではない。いわゆる「論語読みの論語知らず」とはこのことを言ったことである。

 我が国の古事記などを暗記していても、現在の米の値段をも知らない人は、これを家政の学問に暗い人と言うべきである。古典や歴史のことは奥義に達するほどの人であっても、商売の法を心得て正しい取引のできない人は、これを帳簿の学問には疎い人と言うべきである。数年苦労して多額の資金を使い洋学が成就していても、自分の生活もままならないということならば、その人は時勢の学問に疎いと言うべきである。

 こういった人々は単なる文字の問屋と言うべきである。その効能は飯を食う字引きと何の違いがあるだろうか。国のためには無用の長物で、経済を妨げている無用の食客(ただ飯を食らういそうろう)と言っても良い。だから、家政も学問であり、帳簿も学問であり、時勢を知ることも学問であるのだ。どうして必ずしも和漢洋の本を読むことだけを学問だと言うに正当な理由があるだろうか。

 この本の題名は「学問のすすめ」であるけれども、決して字を読むことだけを勧めているわけではない。この本に書いてあることは、西洋のいろいろな本から、文を抜粋して直接訳したり、大意をとって意訳したりして、形のあることについても形のないことについても、一般の人の心得となるような事柄を挙げ、学問の大体の要点を示したものである。

 前回出版したものを初編として、なおその内容を押し広めて今回の二編を記し、次には三篇、四編も出版する予定である。 

 

【解説】 文字は学ぶための道具

  この端書の主旨は、あくまでも「文字は学ぶための道具」でしかないことを言ったものである。現代語訳2「教養よりも実学、だが、それではAIに負ける」の解説でも述べたように、ここに書かれていること、特に後半のことを真に受けて、「ほれ見ろ、いわんこっちゃねぇ。本ばっかり読んでいるから役立たずになるんだ」と言うのなら、本を読めない人が本を読める人にやっかみを言っているに過ぎないし、教養を無視した実学偏重主義は、実益の面でも「僕は本を読まずに、AIや機械に仕事を差し上げます」と宣言しているのと何も変わらない。

 さらに、時代背景のことも考えなければならない。江戸時代には、幕府の政策で、学問と言えば、儒学国学という古典の研究のみだったのである。もっと言えば、士農工商という身分階位からも分かるように、「商」は下賤中の下賤の位であったし、それに関する学問ももちろん軽視されるものであった。今でこそ、「商」に関する学問を修め、会社経営をする人は、尊敬の的にも成り得るが、当時は、そのような「金儲け」に時間を費やす人は、むしろ皆からバカにされ、蔑まれていたのである。

 例えば、最近、新紙幣の肖像に選ばれた渋沢栄一は、『論語と算盤』の中で、自分が大蔵省を辞めて商人になると言った時のことをこのように振り返っている。「私が大蔵省を辞めようとしたとき、友人のなにがしに、『お前は天下救済の道を捨てて、商人に”身を堕とす”と言うのか』と咎められ、あわや警察沙汰になるところであった」と。(出典は「論語と算盤」で間違いないが、この記述は私の記憶によるものであいまい)この「学問のすすめ」が書かれた当時に、商人になるということは、「堕ちる」ことであったし、恥ずべきことであるという認識すらあったのだ。

 だからこそ、福沢諭吉は、ここで「学問」は、何も「儒学国学」ばかりのことではなく、今までは恥知らずの学ぶものとされていたことも「学問」であるし、その「学問」は純粋に自分の身に役立つことだと強調しているのだ。時代背景をよく知らずして、古典に書かれていることを真に受ければ、必ずや弊害がある。中庸にも「今の世に生まれて古に反る者は、わざわいその身に及ぶ者なり」とある。明治初期には明治初期の、現在には現在の道がある。明治初期のことをそのまま現在に当てはめてはならない。

  

 

 f:id:hiratakeigo:20190525141312j:plain

 f:id:hiratakeigo:20190525235310j:plain

 

学問のすすめ 現代語訳 広告ページ(初編)

これにて初編は終了となります。
ここまで読んでいただきありがとうございます。

このページは宣伝用ページとなっております。
ページの下に次のページへのリンクがありますので、興味のない方はそちらから二編にお進みください。


学問のすすめ わかりやすい要約(電子書籍版)

こちらは、私のほうで、学問のすすめをとにかくわかりやすく、また早く読んでいただけるように、文字量を原文の約半分に要約したものです。

また、内容をよく理解してもらうため、編の始めごとに問題意識を高める「はじめに」と、編の終わりごとに簡単な「復習問題」がつけてあります。

学問のすすめに興味はあるが、忙しくて全部を読む時間がない」
「ブログだと横書きで読みにくい」
「ブログ版は解説が長すぎる」
学問のすすめを一気に読みたい」

という方におすすめです。

Amazon Kindleでは、最初の10%がサンプルとして無料ダウンロードできます。

ぜひとも以下のリンクからお試しください。

 

  

 

 f:id:hiratakeigo:20190525141312j:plain

 f:id:hiratakeigo:20190525235310j:plain