平田 圭吾のページ

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『学問のすすめ』現代語訳5 文字は学ぶための道具

二編1(端書) 学問とは広き言葉にて

 学問とは広さのある言葉で、無形の学問もあれば、有形の学問もある。心学、神学、理学などは形の無い学問である。天文、地理、究理、化学などは形のある学問である。しかし、いずれもの学問も全て、知識や見聞の領域を広め、物事の道理をわきまえ、人たる者の職分を知ることだ。

 知識や見聞を広くしていくためには、人の意見を聞いたり、自分で工夫をこらしたり、または書物を読まないとならない。だから、学問をするにあたっては文字を知る必要がある。けれど、昔から世間の人が思っているように、ただ文字を読むだけで学問をしたと思うならば、それはとんだ勘違いである。

 文字というものは、そもそも学問をするための道具であって、例えば、家を立てるにはトンカチやノコギリが必要であるのと同じだ。トンカチやノコギリは大工仕事になくてはならないものであるけれども、それらの道具の名前は知っていても、家の作り方を知らないのならば、この人を大工と言うことはできない。まさしくこのようなわけで、文字を読むことは知っているけれども物事の道理を知らない人は、これを学者と言うべきではない。いわゆる「論語読みの論語知らず」とはこのことを言ったことである。

 我が国の古事記などを暗記していても、現在の米の値段をも知らない人は、これを家政の学問に暗い人と言うべきである。古典や歴史のことは奥義に達するほどの人であっても、商売の法を心得て正しい取引のできない人は、これを帳簿の学問には疎い人と言うべきである。数年苦労して多額の資金を使い洋学が成就していても、自分の生活もままならないということならば、その人は時勢の学問に疎いと言うべきである。

 こういった人々は単なる文字の問屋と言うべきである。その効能は飯を食う字引きと何の違いがあるだろうか。国のためには無用の長物で、経済を妨げている無用の食客(ただ飯を食らういそうろう)と言っても良い。だから、家政も学問であり、帳簿も学問であり、時勢を知ることも学問であるのだ。どうして必ずしも和漢洋の本を読むことだけを学問だと言うに正当な理由があるだろうか。

 この本の題名は「学問のすすめ」であるけれども、決して字を読むことだけを勧めているわけではない。この本に書いてあることは、西洋のいろいろな本から、文を抜粋して直接訳したり、大意をとって意訳したりして、形のあることについても形のないことについても、一般の人の心得となるような事柄を挙げ、学問の大体の要点を示したものである。

 前回出版したものを初編として、なおその内容を押し広めて今回の二編を記し、次には三篇、四編も出版する予定である。 

 

【解説】 文字は学ぶための道具

  この端書の主旨は、あくまでも「文字は学ぶための道具」でしかないことを言ったものである。現代語訳2「教養よりも実学、だが、それではAIに負ける」の解説でも述べたように、ここに書かれていること、特に後半のことを真に受けて、「ほれ見ろ、いわんこっちゃねぇ。本ばっかり読んでいるから役立たずになるんだ」と言うのなら、本を読めない人が本を読める人にやっかみを言っているに過ぎないし、教養を無視した実学偏重主義は、実益の面でも「僕は本を読まずに、AIや機械に仕事を差し上げます」と宣言しているのと何も変わらない。

 さらに、時代背景のことも考えなければならない。江戸時代には、幕府の政策で、学問と言えば、儒学国学という古典の研究のみだったのである。もっと言えば、士農工商という身分階位からも分かるように、「商」は下賤中の下賤の位であったし、それに関する学問ももちろん軽視されるものであった。今でこそ、「商」に関する学問を修め、会社経営をする人は、尊敬の的にも成り得るが、当時は、そのような「金儲け」に時間を費やす人は、むしろ皆からバカにされ、蔑まれていたのである。

 例えば、最近、新紙幣の肖像に選ばれた渋沢栄一は、『論語と算盤』の中で、自分が大蔵省を辞めて商人になると言った時のことをこのように振り返っている。「私が大蔵省を辞めようとしたとき、友人のなにがしに、『お前は天下救済の道を捨てて、商人に”身を堕とす”と言うのか』と咎められ、あわや警察沙汰になるところであった」と。(出典は「論語と算盤」で間違いないが、この記述は私の記憶によるものであいまい)この「学問のすすめ」が書かれた当時に、商人になるということは、「堕ちる」ことであったし、恥ずべきことであるという認識すらあったのだ。

 だからこそ、福沢諭吉は、ここで「学問」は、何も「儒学国学」ばかりのことではなく、今までは恥知らずの学ぶものとされていたことも「学問」であるし、その「学問」は純粋に自分の身に役立つことだと強調しているのだ。時代背景をよく知らずして、古典に書かれていることを真に受ければ、必ずや弊害がある。中庸にも「今の世に生まれて古に反る者は、わざわいその身に及ぶ者なり」とある。明治初期には明治初期の、現在には現在の道がある。明治初期のことをそのまま現在に当てはめてはならない。

  

 

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