平田 圭吾のページ

翻訳や著作にあたって感じたことなど、漢籍の読み方、本の選び方など(記事の無断使用・転載・複写を固く禁じます)ツイッター@kann_seki お問い合わせ・ご意見などはkeigossa☆yahoo.co.jp

『学問のすすめ』現代語訳13 政権への一番の刺激は選挙

四編1 学者の職分を論ず

 最近、識者の意見をひそかに聞いていると、「今後の日本の盛衰は、人智では簡単には察することはできないとはいえ、今の独立の地位を失うような憂き目にあうことは到底ないであろう。また、このごろ目撃しているところの勢いによって進歩すれば、必ず文明盛大の域に至るであろう」とこれを問う者がある。

 あるいは、「この独立を保てるかどうかは、今から二、三十年経たなければ明らかにならず、知ることは困難である」と言って、これを疑う者もある。

 または、甚だしくこの国を蔑視している外国人の説だと、「とても日本の独立は危ういものだ」と言って、これを無理だと言う者がある。

 そもそも、私自身が人の説を聞いてそれを信じて望みを失ってしまうということではないけれども、結局のところ、この諸説があること自体が、私にとって独立を保てるかどうかについての疑問となる。 なぜならば、何も疑いのないところには疑問は起きないからだ。

 もしも今、イギリスに行って、イギリスの独立は保てるのかどうか尋ねてみれば、皆これを笑って答えもしないだろう。どうして答える者が居ないのか、それは疑っていないからである。

 そうであるならば、すなわち、わが日本の文明の有様は、今日と昨日を比べてみれば進歩しているようであるけれども、結局のところは一点の疑いもないとは言えないことになる。かりそめにも日本に生まれて日本人の名がある者にとって、これは心もとないことと言えるのではないか。

 今、私もこの国に生まれて日本人の名があり、また、既にその名があるのなら、また各々その分を明らかにして、尽くさないところがないようにしなければならない。もとより政治に関わることに関しては政府の人に任せられてはいるけれど、社会が運営されていくためには政府の関わらないようなこともまた多いのだ。

 だから、一国の全体を整理するには、人民と政府とが両立してはじめて成功できるのであり、われわれは国民たる分限を尽くし、政府は政府たる分限を尽くし、互いに助け合い、そうして全国の独立を維持しなければならない。

 

 何かを維持するためには力の平均というものが必要である。たとえば、人の体のようなものだ。体を健康に保とうと思うと、食べたり飲んだりしないとならないし、空気と太陽の光が必要であるし、暑い寒い痛いかゆいというような外からの刺激があって、内からこれに応じ、そうしてはじめて体の働きを調和できるものだ。今、この外からの刺激を感じなくして、ただ生力の働くままに放っておくのならば、寒くても厚着せず、暑くても薄着せず、健康は一日も保つことができない。

 国もこれと同じであるのだ。というのも、政治というものは一国の働きである。この働きを調和して国の独立を保とうとするのならば、内に政府の力があり、外に人民の力があり、内外が相応じてその力を平均させなければならない。

 だから政府は生力のようなもので、人民は外物の刺激のようなものだ。もしも、この刺激を無くしてしまって、ただ政府の働くところの任すままにして放っておいたら、国の独立は一日も保つことができない。

 かりそめにも、人の身で知ることのできる道理を明らかにし、その道理によって一国経済の議論に施すことを知っている者は、この力の平均の理を疑うことのないようにしなければならない。

 

【解説】 白紙投票は現政権・現職への追認にしかならない

  ここに福沢が言っているのは、外からの刺激がなければ何も変化はないということだ。上にも例えがあるように、人は暑くなければ薄着にはならないし、寒くなければ厚着にはならない。政府も国民からの刺激がなければ、「このままでいいんだ」ということで何も変化しない。

 ただひとつ現代と違うこととして、当時は、まだ選挙制度すらなかったことがある。だから、政府に刺激を与えようとすれば、穏当な手段でも、政府に出向いて建白書を出すとか、新聞や雑誌で広く政府を批判するなど、現代でも非常にエネルギーが必要な行動をするしかなかった。しかし、現代では選挙がある。

 いかな国会議員の大先生でも、選挙で落ちればただの人。これ以上の刺激があるだろうか。政治家にとって「選挙で向こうに投票された」ということほど大きな刺激はない。だから、正直なところ、デモも批判も痛くない、選挙で落ちることさえなければあとはいい、極論すればこういったことなのだ。

 それなのに、そういった行動がカッコいいと思っているのか、一時期、選挙で白票を投ずると表明していた「知識人(笑)」がいた。また、そういった行動は確かに普通ではないから、「どちらも選択しないという選択をした」という意味でも、優越感を味わえるのかもしれない。しかし、それは何の意味もなさない。政治家は選挙で落とさなければ分からない。白票も棄権も、政治家からしてみれば、「向こうに投票されなくて良かった」という、ただこの一事なのだ。

 特に現在では、衆議院選は小選挙区制度となり、同一選挙区内で当選する人は一人となった。つまり、向こうが勝てばこちらが負けて、こちらが負ければ向こうが勝つということだ。このような状況で、白票や棄権が多くなったらどうなるのか。当然に、地盤・看板・かばん(かばんは選挙資金のこと)の三バンを持っている現職が勝つに決まっている。

 だから、「今に不満がある」という人は、必ず野党に投票しなければならないし、「今のままがいい」という人は、必ず与党に投票しなければならない。投票は二者択一であり、「どちらでもない」という選択はあり得ない。白票も棄権も全くかっこよくないし、優柔不断の産物、全く意味のないものである。

 今ここで、選挙制度について触れたのだが、そもそも、「票をたくさん得たほうが勝つ」という今の選挙制度自体に疑問のある方もあるかもしれない。つまり、選挙という多数決では、必ず少数派の意見が黙殺されるし、接戦で一票差しかなくても、負けたほうの意見はゼロということになってしまうからだ。この「多数決」に疑問を持たれる方には、ぜひとも多数決を疑う――社会的選択理論とは何か (岩波新書)を読んでいただきたい。いろいろな決の取り方が書かれており、投票の集計方法という意味で純粋に興味深い。自分が投票を主宰して決を採るということになったときには、必ず役に立つだろう。

 

 

 

 f:id:hiratakeigo:20190525141312j:plain

 f:id:hiratakeigo:20190525235310j:plain