平田 圭吾のページ

翻訳や著作にあたって感じたことなど、漢籍の読み方、本の選び方など(記事の無断使用・転載・複写を固く禁じます)ツイッター@kann_seki お問い合わせ・ご意見などはkeigossa☆yahoo.co.jp

『学問のすすめ』現代語訳2 教養よりも実学、だが、それではAIに負ける

初編2 学問とは実なき文学を言うにあらず

 学問というものは、ただ難しい字を知って、理解するのが難しい古文を読み、和歌を楽しんで、詩を作るなどといったような、実のない文学をいうものではない。これらの文学は、人の心を楽しませて随分よろしいものではある。しかし、昔から世間で儒者や和学者が言うほど、あがめて尊ぶほどのものではない。

 そもそも、昔から、漢学者で家のことをうまくやる人は少ないし、和歌が上手で商売も巧みな町人というのもほとんどいない。このために、心ある町人や百姓には、子供が学問に没頭し出すと、そのうち貧乏でなんともならなくなってしまうのではないかと、親心で心配する人もいるが、これは無理もないことだ。

 こういったことは、つまるところ、その学問が実益に遠くて日用の便利に間に合わない証拠である。そうであるならば、これらのような実益を生まない学問は後にしておいて、もっぱら専念すべきは人間の日用生活に有用な実学である。

 たとえば、いろは四十七文字習って、手紙の書き方、帳簿の付け方、そろばん(計算)の練習、天秤(はかり)の使い方などを心得ることなど、このほかにも進んで学ぶべきことはとても多くある。

 地理学とは、日本のことはもちろん世界中の国の風土の道案内である。究理学(自然科学・理科)とは、天地万物の性質を見てその働きを知る学問である。歴史とは、年代記の詳しいもののことで、世界中の今と昔のあり様を詳しく知る書物である。経済学とは、一身一家の世帯から天下の世帯を説いているものである。修身学とは、身の行いを修めて人と交わり、この世を渡るための天然の道筋を述べたものである。

 これらの学問をするために、いずれも西洋の翻訳書を調べて、だいたいのことは日本の仮名をうまく用いるようにすることだ。また、あるいは才能のある子供には横文字(西洋語一般のこと)をも読ませて、ひとつの科目ひとつの学問にも事実を押さえさせ、そのものごとに従事させ、近くは物事の詳しい道理を求めさせることによって、今日必要なことを成し遂げるべきである。

 今述べたことは、人間の日常で必要な実学であって、人であるならば貴賤上下の区別なく皆が皆たしなむべき心得である。この心得があってのち、士農工商各々での職務を果たして、各人の家業を営むことができるようになるだろう。そうすれば、一身が独立し、一家が独立し、天下国家も独立することができるのである。

 

【解説】教養よりも実学、だが、それではAIに負ける

 またしても、最近では批判されるようになってきたことが出てきた。つまり、役に立つ学問である実学を優先して、文学などは後回しでよいとする「教養否定論」である。大学の授業に教養課程は必要なく、就職後の職業に直接関係ない授業は減らせ、というのが、昨今の文部省の方針である。それで、なぜ、教養課程を減らすかと言えば、教養課程は経済を発展させない「無駄なもの」だからと言うのだ。

 確かにそのとおりである。和歌を詠んでも工業製品は増えないし、素人の詠んだ和歌を集めた読み人知らずの和歌集を買う人などほとんどいないだろう。実に役に立つ実学とは言えない。しかし、それはあくまでも、「経済」ということを直接に考えた場合の視野の狭い話でしかない。むしろ時代遅れな考え方ともいえる。

 というのも、最近では人工知能の発達目覚ましいからだ。人工知能、つまりAIは大変に計算能力が高いし、計算結果も正確である。おまけに疲れ知らずだ。日本一の計算の名人でも、算盤のチャンピオンでも、「計算をする」ということにおいて、AIに勝つことはできないだろう。まさに、人間が「実学」を極めたところで、AIには勝てないのである。それなのに、「実学」を重視しようとは、まさに時代遅れだ。実際、先物取引や株取引は、大きな証券会社ほど、その取引のほとんどをAIで処理しているらしい。AIのほうが計算が早いし正確だからだ。

 では、どのような点で人間がAIに優れるのかと言えば、それはまさに「教養」という点においてである。AIは万能なようであるが、「入力されたこと」を「決められたアルゴリズム」でしか計算できないという欠点がある。これを「フレーム問題」と言う。決められた枠内でしか計算や判断ができないから「flame(枠)problem」である。

 その点、一見すると無駄なようなこと、つまり経済の枠外のことを学ぶ「教養」は、まさに人類がAIに勝る部分だと言えるだろう。もっとも、教養を実益に役立てる「応用力」が、教養を役立てるために必要な資質にはなる。しかし、この「応用力」も、AIにはないが、人には普通に備わっている資質である。人が「教養」に基ずく「応用力」を発揮すると「ひらめき」が訪れる。パソコンやスマフォを使っていれば分かることであるが、これらの機器が「ひらめく」ことはない。もし仮に、パソコンやスマフォが「あなたの入力でひらめいた」と、意図しない動きをすれば、それは故障なのだ。

 だから、最先端を行けばこそ、人間には教養も大事だと私は主張する。もちろん、実学の基礎がなければ、ひらめきもくそもないから、あくまでも、教養「も」大事であるということなのだが。ここを勘違いして、小説などの文学作品しか読まなくせいに「自分は教養のある大変有用な人間だ」とするなら、これほど始末に負えない人はいないだろう。小説は誰にでも分かるように書かれた娯楽である。ここで福沢が言うように実学も大事なのだ。勘違いしてはならない。

 それで、ここで私が話題にした「AIの弱点」に関する話は、人工知能の核心 (NHK出版新書 511)を読んでいただくことでより明らかなものとなるだろう。将棋で有名な羽生善治氏も著作に関わっているので、人間の知能とは何かという観点からも大変興味深い書物となっている。
※画像はアマゾンへのリンク

 

 f:id:hiratakeigo:20190525141312j:plain

 f:id:hiratakeigo:20190525235310j:plain