平田 圭吾のページ

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学問のすすめ 現代語訳 宣伝ページ(二編)

これにて二編は終了となります。
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大学 現代語訳(電子書籍版)

『大学』とは、孔子の学派である儒学の「四書五経」の第一に挙げられる経典です。また、薪を背負いながら本を読む眼鏡の少年像、二宮金次郎像が手にしている本でもあります。

このように言うと少し難しく感じるかもしれませんが、本書の特色は、原典を外国語と割り切り、書き下し文を掲載せず、努めて平易な現代語に訳したことです。かなり読みやすいと感じていただけるはずです。

『大学』に書かれている言葉のうちで聞いたことがあるかもしれないフレーズと言えば、やはり、「平天下、斉家、修身、誠意、致知、格物」です。現代の日本でも頻繁に使われる言葉が入っていますが、すべてこの『大学』が出典となっている言葉です。
「これらの言葉の意味を詳しく知りたい」という方には、必ず興味深く読んでいただけます。

もともと文字数の少ない書物ということもあり、お値段は大変お値打ちとなっております。また、Amazon Kindleでは、最初の10%がサンプルとして無料ダウンロードできます。

ぜひとも以下のリンクからお試しください。

 

  

 

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『学問のすすめ』現代語訳8 無学文盲の馬鹿者がマスコミをマスゴミにする

 二編4 人を取り扱うにはその相手次第にて

 このような悪い風習(幕府に盲目的に従い、幕府の当たり前の役割を「御恩」とありがたがる風習)ができた理由を考えてみる。すると、その根本は、人間は同等であるという大事な基本を見誤って、貧富強弱と言った有様を悪い道具に使い、政府や富強という勢いで、貧弱な人民の権利通義を妨げていることにあるとわかる。 
 だから、人は、常に同位同等であるという基本的なことを忘れてはならない。これは人間の世界で最も大切なことだ。英語ではこれを「reciprocity(相互利益)」または「equality(同等、平等)」と言う。すなわち、初編のはじめで言った万人同じ位とはことことである。

 

 今まで述べてきたことは、百姓町人に一方的に味方して、思うがままに勢いを張れというような議論であるけれど、また一方から言えば、別に論ずべきことがある。と言うのも、おおよそ人を取り扱うには、その相手の人物次第であって、自ずからその相手に応じた加減というものがあるからだ。

 元来、人民と政府との間柄は、もと同一のものであるが、職分だけは区別されていて、政府は人民の代理として法を施し、人民は必ずこの法を守らなければならないと、固く約束をしているはすである。

 例えば今、日本国中で明治の年号を認めている人は、今の政府の法に従うおうと条約を結んでいる国民だ。だから一度国法と定められたことが、もし仮に、ある国民一人にとって不便であったとしても、これを改革するということまでには至らない。小心翼翼謹んで法を守らなければならない。これが即ち国民の職分である。

 そうであるのに、無学文盲、理非の理の字も知らず、身についている芸当と言えば、食うことと寝ること起きることだけで、そのように無学であるのに欲は深く、目の前の人を欺いては巧みに政府の法を逃れ、国法の何ものたるかをも知らず、自分の職分と言うものすら知らず、子は産むけれどもその子を教える道をも知らず、いわゆる恥も法も知らない馬鹿者で、その子孫が繁栄すると国益となるどころか、かえって害をなすような人もいないことはない。

 このような馬鹿者を取り扱うのに、とても道理で説得するということはできない。不本意ではあるけれども力を使って脅し、ひと時の大きな害を鎮めるより、他に手だてがないのだ。これがすなわち暴政府というものが世間にある理由である。これは日本の旧幕府だけでなくて、アジア諸国において古来から皆そうなっている。

 ということは、一国の暴政府は、必ずしも暴君や暴吏(ひどい役人)によるものではなく、実は人民の無智でもって自ら招いている禍(わざわい)であるのだ。たとえば、他人にけしかけられて暗殺を企てる者もあり、新しい法を誤解して一揆をする者もあり、強訴(自分の訴えは正しいが受け入れられないとして徒党を組んで暴力に訴えること)であると言って金持ちの家に押し入り、酒を飲んで金を盗む者もいる。こういった行動はとても人間の所業とは思われない。

 このような賊民を取り扱うには、釈迦や孔子といえども名案がないのは必定、是非とも厳しい政治を行おうということになる。だからこのように言う、人民がもしも暴政を避けようと思うのならば、すみやかに学問に志して自分の才徳を高くし、政府と相対して同位同等の地位に登らなければならないと。これがすなわち、わたしの勧めている学問の要点である。
(明治六年十一月出版) 

 

【解説】無学文盲の馬鹿者がマスコミをマスゴミにする

 最近、ネットが普及したことにより、主にテレビというマスメディアに報道されない事実が明るみとなることが増えてきた。また、そういった事実が明るみになるたびに、「マスコミは政府の手先のマスゴミだ」だの「マスゴミは権力で操られており都合の悪い報道をしない」だの、いわゆる「マスコミが悪いから全てが悪い論」を主張する人も現れるようになってきた。

 しかし、その「マスコミが悪いから全てが悪い論」は、少し違うということは指摘しておきたい。そもそも、ツイッターにおいて、政治に関するツイートがよくバズった(爆発的に拡散された)としても、リツイート、イイネともに10000程度である。一方で、まったく意味がわからない、日本語としての文法もおかしい、本当に意味が分からないとしか思えないような、なんとなくの写真付きツイートがバズると、余裕で40000程度のリツイートやイイネがつくのだ。また、こういった意味の分からないツイートがバズる確率も非常に高い。政治的ツイートが10ツイートバズる間に、その手のツイートは100ツイートはバズっているだろう。この事実が指し示す事実とは、国民の大半、もちろんネット民の大半も「そもそも政治的なことに関心を持っていない」ということに他ならない。

 ところで、マスメディアとは、人が一人でも多く関心を示し、人が一人でも多く集まるような報道をするところだろうか、あるいは、人が関心を示さず閑古鳥が鳴くような報道をするところだろうか。また、マスメディアの運営主体は、どちらの報道をしたときに、視聴者や読者が満足すると考えるのだろうか。

 答えは出ている。マスメディアは、視聴者を満足させ、一人でも多くの人を集め、こうして本来の目的である「売上」や「広告収入」を増やそうとしているのだ。このような状況下において、「明るみに出ない事実」とは、ただ単に国民の大半にとって「関心を持たれることがなさそうな事実」でしかないということになる。だから、マスコミに報道されることは、国民の多くが関心を持つことであり、報道しないことは一部の人しか関心を持たないことということになる。ならば、マスコミの報道内容は、あくまでも視聴者や読者次第となる。だから言うのだ。無学文盲の馬鹿者がマスコミをマスゴミにすると。

 すると、ここで福沢が言うように、こういった無学文盲の輩には、暴政府の力が必要となってしまう。しかしもちろん、現代における暴政府の用いる力は、直接的な暴力や、旧幕府のようなあからさまな理不尽ではない。カエルをぬるま湯につけ、蛇が獲物を生殺しするかのような陰険な搾取であり、その力が及ぶのは現在でなく未来となる。気づくのも遅れて、その処方は手遅れとしかならない暴政府の陰険にして絶大な力、実に恐るべきものである。無学文盲の罪は未来に及ぶのだ。

 さて、ここで話題にした「マスゴミ」であるが、その実態やシェアを事細かに記した良著がある。出版しているのは、権力の手先として有名なNHKであるが、内容は正しく有益なものであると私が保証する。上にも述べてきたように、いかな「マスゴミ」といえども、需要があり採算の取れる所には、事実を包み隠さず報道するのだ。(表紙に「変化の実相を~~」と赤字のあるほうが新版のようだが、私が目を通したのは旧版)

※画像はアマゾンへのリンク

 

 

 

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『学問のすすめ』現代語訳7 なぜ国民は政府に従わなければならないのか

二編3 政府と人民との間に見苦しきことあり

 今まで述べた議論を世の中のことに当てはめてみる。すると、旧幕府の時代には、士(侍)とその他の民との身分の差が甚だしくて、士族はみだりに権威を振るい、百姓や町人への扱いはまるで罪人を扱うかのようであり、「切り捨て御免」という法もあった。この法によると、平民の生命はその平民自身の生命でなくて借り物に他ならなかった。百姓他、平民は縁もゆかりもない士族に平身低頭し、外では道を避け、内では席を譲り、甚だしいことには自分の家で飼っている馬にも乗れないとほどの不便を強いられていた。これらは、実に「けしからん」ことだ。


 これは、士族と平民と一人ずつ対したときの不平等であるけれど、政府と人民との間に至っては、なおこれよりも見苦しいことがあった。幕府はもちろん、三百ある諸候(お殿様)の領内にまで小政府を立てて、百姓町人を勝手次第に取扱い、時には慈悲に似たようなこともあったけれど、その実は人の持ち前の権利通義を認めることではなくて、実に見るに忍びないことが多かった。

 そもそも、政府と人民との間柄というものは、前にも言ったように、ただ強弱の有様が違うだけであって、権利の違いはないはずである。百姓は米を作って人を養い、町人は物を売買して世の便利を達する。これがすなわち百姓や町人の商売である。また、政府とは、法令を設けて悪人を制し善人を保護するものである。これがすなわち、政府の商売だ。

 しかし、この政府の商売をするためには莫大な資金が必要であり、政府には米も金もない。このため、百姓や町人に年貢や税金を出してもらって政府の収入をまかなうことになる。本来このように、双方一致の上で相談を取り決めたはずだ。これがすなわち、政府と人民との約束である。

 ならば、百姓町人は、年貢や税金を出すことによって固く国法を守れば、その職分を尽くしていると言うべきであり、政府は、年貢や税金を受け取って正しくそれを使うことで人民を保護したのならば、その職分を尽くしているというべきである。

 このように、双方が、その職分を尽くして約束を破っていないのならば、これ以上は何の申し分もない。おのおのがその権利通義をたくましくしても、少しも妨げをするということはあり得ないはずだ。

 そうであるはずなのだけど、幕府の時代には政府のことを御上様と唱え、御上の御用とあれば馬鹿に威光を振うのみならず、道中の旅館でまでもただ飯を食い倒し、川渡しにも金を払わず、荷物持ちにも給料を払わずに、甚だしい場合ではその荷物持ちを恐喝して酒代を巻き上げるといったようなこともあった。正気の沙汰とは言えない。

 または、殿様の趣味のものずきで大きな建物を建てたり、役人が殿様への忖度(そんたく)でどうでもいいようなことをやり始め、無益なことをして金を使い果たすと、今度は言葉をいろいろと飾って年貢を増やし御用金を言い付け、これを御国恩に報いると言う。そもそも御国恩とは何のことを言っているのだ。

 百姓町人が安穏に家業を営んで盗賊や人殺しの心配もなく生活できることを、政府の御恩と言うべきである。しかし、そもそもこのようにして安穏に生活できるのは、政府の法があるためではあるけれども、法を設けて人民を保護することは政府の商売がら当然の職分なのである。ならば、これは御恩と言うべきものではない。 というのも、もしも、政府が人民に対して、この保護することをもって御恩と言うのならば、百姓や町人は、年貢や税金を納めていることを政府に対して御恩だとすることができる。

 政府が、公共の仕事や裁判をしていることを偉ぶって「お前たちは政府の御厄介になっているではないか」と言うのならば、人民も、収穫の五割も年貢を納めていることを「政府も年貢の御厄介になっているではないか」と言ってやるべきである。しかし、これでは、売り言葉に買い言葉で、果てしないことになってしまう。だから、とにもかくにも、お互いに等しく恩のあるものであるならば、片方だけが礼を言って、もう片方は礼を言わなくていいという道理はないのだ。

 

【解説】政府と国民は同等

 福沢諭吉は実にユーモアがあるなと思う。政府が「お前らは我らの世話になっているだろ」と言うのなら、国民も「お前らは我らの税金の世話になっているだろ」と言うのが当然だと言うのだ。これは、本来なら会社や組織の上下関係でも言えることだろう。つまり、社長や株主と社員の関係である。何も社員は社長や株主に卑屈になる必要はない。社員がいなくなれば、社長も株主もただの人である。

 さて、ここにあるような「政府と国民の約束」のことを「社会契約」と言う。その概略は、ここで福沢が述べているように、政府の役割と国民の役割を明確化し、お互いが約束事を交わしていると仮定する理論である。仮定すると言うのは、実際、日本に生まれ日本で生活するのなら、それがいかに不服で約束する気がなくとも、日本政府とお互いの役割を約束するしかないからだ。実際に約束したわけではないが約束したことになっている。だから仮定なのだが、日本政府のやり方がどうしても不服ならば、海外に移住するか、選挙に参加して地道に日本政府を変えていくかの二通りしかない。

 事実としては上に述べたようにするよりほかないけれど、中には「いやそんな理論は納得できない」「なんでそんなことになったのか」と思われる方もあるだろう。ここでは、その疑問に答えてくれる本を紹介したい。

 そもそも、「社会契約」という考え方は、文明文化の発展や生活形態の変化といった社会背景から、国家に「主権」が必要とされるようになったことに端を発し、さらに、その「主権」が「君主」から「国民」に移り、現在の民主主義に変化してきた過程で生まれた考え方である。この過程を代表的な古典を引用しながら述べていく、近代政治哲学 ──自然・主権・行政 (ちくま新書)は大変な良著だ。政治哲学の歴史をわかりやすくまとめているうえに、それらの記述を通して、現在の政治の問題点も浮き彫りしている。
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