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翻訳本 司馬法 少しずつ紹介2 「なぜ戦うのか」

《なぜ戦うのか》

 

◆書き下し文◆

古(いにしえ)の者は、仁(じん)を以(も)て本(もと)と為(な)し、義を以て之(これ)を治む。之を正と謂う。

正にて意を獲(え)ざれば則(すなわ)ち権(はか)る。権るは戦いに出るも、中人(ちゅうじん)に出(い)でず。

是(こ)の故(ゆえ)に、人を殺し人を安んずるに、之を殺すも可なり。其(そ)の国を攻め其の民(たみ)を愛するに、之を攻めるも可なり。戦以て戦の止(や)めば、戦うといえども可なり。

 

◆現代語訳◆

 古の者は、仁を根本として、義によって国を治めていた。これを正と言う。

 このように正を行っていても(自身の未熟や周りの環境によって)思い通りにいかなくなれば、はかりごとを(して無理矢理に自分の思いを通そうと)する。はかりごとをするということは、戦いという手段に出ることはあっても、(所詮は、聖人や君子といった聡明な者が用いる手段でなく)並以下の人のやり方である。

 このために、人を殺すことによって人を安んずる。だから、これを殺してもいいのである。その国を攻めて(圧政から人々を開放し)その民衆を愛する。だから、これを攻めてもよいのである。戦いによって戦いが終わる。だから、戦うという手段を用いてもよいのである。

 

◆解説◆

 魏武帝孫子序で曹操は、この『司馬法』からの引用として、「人は故(もとより)人を殺す、之を殺すも可なり。(人はそもそも人を殺すものである。だから、人を殺してもよい)」としている。

 戦いをして、人という同族同士で殺し合い傷つけ合うことは、いつの時代も忌(い)み嫌われることである。

 しかし、どれだけ教育を施(ほどこ)しても、人を殺してでも自分の我を通そうとする「中人に出(い)でざる者」はいつの時代もいるのである。

 こういった人から、自分と自分の愛する者、引いては多くの人々を守るためには、戦うしかない。相手が、不幸にも戦いという手段を選んでしまっている以上は、こちらも戦うしかないのだ。戦うという手段は下劣であり、使うべきものでないが、それでも使わなければならない。だから兵や力がある。

 兵や力をやむを得ず用いるという考え方は、兵法の基本である。この基本のない人、つまり、仁という根本が無く、義を無視する人には、そもそも兵法を理解することすらできない。ましてや、兵法を役立てることなどは、無論できるはずもない。

  

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