曹操はなんで孫子に注をつけたのか? 魏武帝注孫子翻訳に当たって3
今回記事にすることは、全く個人的な意見であり、何の根拠もないことです。けれど、長い間同じ本に向き合っていれば、その本を書いた人の気持も見えてくるものです。ですからそれが根拠です。
その上で、ですが、どうして曹操は、孫子に注を付けたのでしょうか。
そう考えた時、私はこのように思います。曹操は「身近な人々のことを心配して孫子に注を書いた」と。
というのも、解説が懇切丁寧で、その上で「実戦を知らない人」を想定しているように思えるからです。
具体的にどういったところがどうなのか、ということは、実際に『魏武帝注孫子』を読んでいただいて確認していただきたいのですが、一例を挙げますと、
『孫子』作戦編冒頭に、「凡(おおよ)そ兵を用いるの法は、馳車千駟(ちしゃせんし)、革車(かくしゃ)千乗、帯甲(たいこう)十万、千里にして糧を饋(おく)る。」とあるとろこに、
「【馳車は軽車なり。駟馬(しば)に駕(の)る。華車、重車なり。】」と注釈を入れているのです。
ここを翻訳しますと、
「そもそも兵を用いる時の法則においては、馬四頭立ての馳車が千台、革で装甲した戦車も千台、甲冑は十万組(をそれぞれ用意して)、さらに千里の先まで兵糧を送ることになります。【馳車とは軽車(戦車以外の軽車両)のことである。四頭立てで引っ張る馬車で、人が乗るための飾りを施した華車、重いものを輸送する重車のことだ。】」
ということになります。
戦争で使われる車について、既に何度も従軍したことがある人に対して、これほど懇切丁寧な注釈を入れる必要があるでしょうか?何度も従軍したことがある人なら、文脈からも大体分かるはずで、例えば曹操が夏侯惇や、その他の将軍たちだけを想定していたら、いちいちこんな説明をしようとは思わないはずです。
また、「華車」や「重車」は、明らかにその時の口語です。つまり、どんどん変わっていく言葉です。未来を慮ることができた曹操が、言葉や車の形が変わっていくことも分からなかったとは思えません。事実今は、華車や重車というのは、既になくなっています。ならば、曹操は遠く未来に自分の注釈を残すために、この注釈を書いたということではないはずです。
つまり、この注釈について詳しく考えてみても、「曹操は身近な人に頼まれるような形で注釈を書いたか、あるいは、少なくとも身近な人々のことを頭に浮かべながら注釈を書いたんだろうなぁ」ということが分かるのです。
この他にも、注釈はたくさんあり、たくさんのことが読み取れるわけですが、やはり、「魏武帝注孫子」は晩年のわりと戦争が無かった時の著作であるように感じられます。
また「この魏国の繁栄のために!」とか「オレの偉大さを後世に伝えてやるのだ!」といった、なんかギトギトした気持ちで書かれたものとも感じられません。こうするといいというような、利益を追求するような文章がないからです。
あくまでも、近しい人々の顔を思い浮かべながら「あいつには、こうゆう説明をつけといてやるといいかな」という気持ちで書かれたもののように感じます。
実際にそうであるかどうかは、実際に読んで感じ取ってみてください。
なお、ここに紹介する『曹操言志』では、このような曹操の人間性を垣間見ることのできる史書の記録を集めました。また、正史・史実の『三国志』に関する解説も織り交ぜてありますので、「正史や史実の三国志は初めて」という方にもお勧めです。
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